大分前のことになりますが、臓器移植法案の改正に併せて、「臓器移植法改正案成立を受けて」という記事を書きました。その中で私は個人的に、臓器移植のハードルが段階的に下がっていくことに対して、懸念を表明しました。その最大の理由として、「脳死判定を受けた人が、その後回復する可能性がゼロではない」、ということを挙げました。
今日は、私のその見方を、多少なりともサポートしてくれそうな記事を発見したので、紹介したいと思います。
初めにお断りしておきますが、以下の記事はいわゆる「植物状態」にあった患者についてのもので、「脳死」とされた患者ではありません。医学的には脳死と植物状態は全く異なるものとされているそうです(但し、私は果たしてそのような判断が本当に妥当なのかどうか、疑問を感じてはいますが)。そのことを理解した上で、お読み頂ければと思います。
23年間植物状態と思われていた男性に実はずっと意識があったことが判明 – GIGAZINE
上記の記事では、23年間、外部の人間からは「この人は植物状態」と思われ、一切外部に情報発信をできなかった男性が、ある日行われた再判定で脳は完全に機能していることが確認され、それ以後、機械の助けを借りてコミュニケーション能力を回復したという、驚くべき内容が書かれています。
上述したように、この患者は「植物状態」であり、「脳死」とされていた訳ではありません。その点は違うのですが、私は、「外部に対して情報発信できないが為に死んでいると思われている」という事例は、脳死の場合にもあり得るのではないか、という疑いを抱いています。
「そんなことはありえない」と医学者は言うかも知れません。けれども、果たして脳幹の停止は即、「脳の死」なのか。人間としての生命は既にそこで終わっているのか、と聞かれて、100%絶対にありえない、と言えるのでしょうか。
この男性の場合、23年もの間、自分は外界の出来事を全て知っているのに、周りの人にそれを伝えられないという苦しみを味わいました。23年間です! そのもどかしさたるや、想像を絶するものがあります。
しかしもし仮に、「この人は脳死です」と判断され、自分の目の前で臓器移植の書類がサインされるのを見ながら、意識を保っている人がいたとしたらどうでしょうか・・? 想像だにしたくありません。
医学者は脳波を見て「脳死」を判定します。しかし、今回の男性は、その同じ脳波を見て「植物状態」と判断されました。しかし、それは誤っていたのです。同じことが、脳死判定において「絶対にありえない」と、本当に言い切れるのでしょうか? もし言い切れないとしたら、一体「脳死」とは何でしょうか。臓器移植を実施するために、恣意的に作り出された「死」の定義と言いうるかも知れない。そう思うのです。
上に上げた記事の男性のような人がいるということは、人間の生命というものが、それ程単純なものではないことを、良く表しているのではないでしょうか。
考えさせられる記事でした。
![](http://img.zemanta.com/pixy.gif?x-id=db9087bf-c95d-8c76-b471-f7d9a5943504)
コメント
私は大学時代、刑法のゼミを専攻していましたが、その時の教授は「脳死」に関してかなり否定的な方でした。
私は、自分の脳が死んだら(自分で自分がコントロールできなくなったら)臓器を何でもくれてやる、という具合に、ドナー登録をしています。家族にはあまり大々的には言っていませんが、ドナー登録カードを免許証入れには入れています。そしてそれは家族の同意が無くても通じるものです。
脳が死んでも心臓は動いているとか、植物状態でも生きているとか、先日のニュースでは韓国で4年間脳死だった人の記憶がよみがえったとか、ニュースは様々ですが、自分で自分を判断できなくなったら、自分で生きていると言えないと私は考えている(少なくともその確率がはるかに高い)ので、私は臓器移植を希望しています。私が死んでも、私の臓器が臓器として生きているならば、私はどこかで人命を助けているのです。
しかし、です。私の大学教授の持論は「臓器移植をした医師は、名誉になる」という下らない話でした。私が大学生のころは1992~1996ですので、そういう風潮があっても不思議ではありません。そんな低レベルな話だったら私は全くゴメンです。
漫画家の石ノ森章太郎氏は、「クローン人間を反対するのはキリスト教徒。科学者の知識のためにはクローン技術は必要」という趣旨の発言をしていますが、もしそれが石ノ森氏の思い違いではなく、本当の話であるなら、私は心底仰天します。
そういう部分に関しては、石ノ森氏の意見と私の意見はやや違うところです。