民主党の小沢幹事長が、キリスト教について「排他的で独善的な宗教だ」と述べたことについて、日本キリスト教連合会 が抗議文を送ったという記事が、ニュースで流れています。
「独善的」発言でキリスト教連合会が小沢氏に撤回要求の抗議文 [MSN産経]
日本キリスト教連合会(JCCC)は、公式HPによれば「日本国憲法が保障する信教の自由と政教分離の原則のもとに、キリスト教文化の振興を図り、宗教法人の適正な管理運営に寄与し、一方では「信教の自由」を守るために発言すべき時に発言するという責任を託されてい」るとのことです。構成員はカトリック教会・NCC・福音派を横断するような、幅広い団体です。
抗議文を送ったことについては、重要なことと考えます。一般のメディアに取り上げられたことを見ても効果があったと思います。政治権力を握っている者が、特定の宗教を非難し、特定の宗教への肩入れを公然と行うような事態は、政教分離の原則から見ても、十分非難に値する行動だと思います。JCCCには、これからもこのような活動を続けてほしいと思います。
・・・ただ同時に思った事は、「恐らく日本人の中の相当多くの人が小沢発言に対して『その通りだ』と思っているだろうなぁ」ということでした。良識ある人であれば、小沢氏がキリスト教についても、仏教についても大した理解を持っていないと言うことは分かるのですが、一般大衆もそうとは限りません。
むしろ小沢氏の発言は、日本人の中にあるキリスト教に対する代表的な見方を代弁したもののようにさえ思えるのです。さらに米国の現状があります。「福音的キリスト者」とされるブッシュ大統領の八年間で起こった事を見るならば、「独善的で排他的」との指摘は、牧師である私でさえ、むしろ的を射た指摘とさえ思うのです。
私たちキリスト者は、地道な抗議を続ける一方で、世間は自分たちをそのように見ているのだ、という認識をも同時に持ち、ことばと行いによる適切な弁証の責任を果たしていかなければならないと思うのです。
イエス・キリストは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。…平和をつくる者は幸いです。その人たちは神の子どもと呼ばれるから。」(マタイ5:2, 9)と言われました。現代の教会は、この信仰の神髄をどれだけ理解し、また表しているでしょうか。
まずキリスト者自身が謙遜にされて行くことによって、福音は「独善的で排他的」と言われるようなものではないことを示していかなければならないと思います。そして失われている福音の真実を回復していかなければならないと思います。
・・・
一方で、小沢氏の仏教礼賛とも思えるような発言には、裏があることも日本人は気づいています。今日の新聞の投書欄には、「戒名断り、母は無宗教の墓へ」という投書が載っていました。引用してみたいと思います。
「母が1月に亡くなり、戒名を巡って菩提寺ともめた。…菩提寺が遠かったこともあり、別の住職に通夜と葬儀をお願いした。しかし、戒名を授けて本葬儀をしないと、母は浄土にいけないと菩提寺から言われた。戒名50万円、本葬儀60万円のところを計80万円にすると説明された。生前仏の道に功徳を積んだ人間に、位の高い戒名を与えると言うが、実際はお布施を払った後に授かることになる。…以前から高額で価格もあやふやな戒名に不信感を感じており、『要らない』と申し上げた。すると『出て行ってくれ』と言われてしまった。この先、我が家ではお経のない葬儀をすることになる。墓石には母と祖父母らの俗名のみを刻んだ。これが正しかったのか。孫子のために良かったのか。結論はもう少し時間がかかるかも知れない。…」
読んでいて、考え込んでしまいました。小沢氏の「仏教では死ねばみな仏様」発言の直後で、余りにもタイミング良かったからです。「仏様になる」の実態は、上記のようなものです。そして、多くの人々が疑問を感じているのです。
この方は「お金を払わない」という勇気ある決断をしましたが、親族からの圧力がある人は、無理な場合も多いでしょう。
そして同時に思ったのは、「このような人々に福音が届いていない」という現実です。福音の「よいしらせ」は、まさにこの投書をしたような人に必要なのではないでしょうか。お金の問題で寺から追い出されたが、かといって「では教会に」ともならない。そして、「これでよかったのか」と自問自答しながら、割り切れない思いで過ごす遺族の方々。
これがこの国の現実なのです。
小沢発言は、はからずもこの国のこうした現実の上を飛び越えていきました。
私たちキリスト者は何ができるでしょうか。
真剣に取り組んでいかなければならないと思います。
コメント