中東情勢というものは、私たち日本人からすると、「複雑怪奇」で理解が難しい、というのが正直な印象だろうと思います。かくいう私も例外ではありません。特に理解が難しいのは、イスラム教という宗教をどう理解するか、という点です。私はキリスト教の牧師という立場上、聖書のことはそれなりに通じているつもりであり、イスラム教がその土台の一つとして旧約聖書をある程度受容していることは理解しています。しかし、とりわけ「宗派」については本当に無知であるのが実際です。そのため、これまで様々な媒体を通して、イスラム教の主要な宗派であるスンニ派とシーア派の違いを理解しようと試みてきましたが、ついぞ「得心した」と思えるような情報に出会ったことがなく、歯がゆい思いをしてきました。しかし、そのような状況を終わらせてくれる書物に、先日出会いました。それが今回ご紹介する本です。
著者の池内恵(いけうち・さとし)氏は、東京大学先端科学技術研究センターの准教授で、イスラム学の専門家として、TwitterやForesight(フォーサイト)などのオンラインメディアで活躍しておられます。1973年生まれと言うことですからまだ45歳。今後が非常に期待される若手の研究者です。
この「シーア派とスンニ派」の本は、そのタイトルの通りに、イスラム教シーア派とスンニ派の違い、そして、この違いが近代〜現代の中東情勢に対してどのような影響を与え、また今後はどうなっていくことが想定されるか、ということを敷衍的に語ったものです。ページ数はあとがきを含めて142頁と、それほど多くはなく、あくまで概論的な内容と考えた方が良いです。実際、脚注のたぐいは一切ありません。ですから、著者も「学術書」として出版したわけではないことは明確で、その点を踏まえて読むべき本と言えます。
ともかくも、私はこの本を読んで初めて、シーア派とスンニ派の違いを明確に理解することができました。それだけでも、この本を読んだことには意味があったと思います。両者の違いの核心的な部分を一言で言えば、すなわち「預言者ムハンマドの死後、イスラム教団を継承した指導者たちの正統性を認めるか否かで、シーア派とスンニ派の違いが生じた」、ということです。ムハンマドの死後に起こった3代目までのカリフによる統治を認めないのが「シーア派」であり、反対に認めるのが「スンニ派」です。
中東に当てはめて言えば、イランはシーア派が圧倒的で、サウジアラビアはスンニ派の一派であるワッハーブ派が支配的、イラクもシーア派が多く、シリアはギリギリシーア派の枠内に収まるアラウィー派、と非常に「まだら模様」になっています。ただ、基本的には「シーア派とスンニ派」という軸で区分することはできるだろう、というのが著者の理解のようです。
池内氏はこのように、中東情勢は基本的に宗派によって理解できる、という立場を取っていることは明確だと思いますが、その一方で、「中東で起こる紛争や戦争はすべて宗派対立である」という単純化された構図に対しては、明快に反対しています。その理由は、一般に「宗派対立」と言われるものは、「教義の違い」を理由に対立しているのではなく、長年の政治的・民族的・歴史的な支配と被支配、迫害や抑圧と言った問題が、宗派にリンクした共同体に対して行われていたために、表面上、宗派対立に見えるだけだ、と理解しているからです。つまり、イスラム教の宗派というものは「共同体」なのであって、共同体である以上は、人々の記憶や歴史と切り離すことはできず、むしろそのような人間的な要素が前景になって、教義上の差異は後景に退いている、ということですね。
この視点は私にとっては非常に新鮮であり、従来の単純化された「中東の問題は宗派対立」という理解から解き放ってくれたという点で、とてもありがたいものでした。そしてこれは、キリスト教内部において、「宗派対立」と呼ばれるような現象に対しても、そのまま当てはまるのではないか、と思いました。例えば、北アイルランド紛争などはまさにそうだと思います。この問題は、カトリック主体の北アイルランドが、プロテスタント主体の英連合王国からの離脱を図ろうとして、離脱派とイギリス派の間で1970〜1990年代にテロ行為が繰り広げられたものです。メディアはこの紛争を「カトリックとプロテスタントの宗派対立」と煽り立てましたが、実際はむしろ、宗派対立などではなく、「宗派対立を隠れ蓑にした政治闘争」と呼ぶべきものであったと言われます。「宗派対立」と単純化して書けば、視聴者は「分かったような気」になり、それで問題の本質がかえってぼやけてしまうのです。
池内氏は本書の結びのあたりで、中東情勢を「まだら」と表しています。国単位で白黒綺麗に分かれるような単純なものではなく、さまざまな集団がまだら模様を成すように折り重なって、いまの中東が存在している、と言います。従って、この問題は一朝一夕で解決するような性質のものではなく、中東に目を向ける私たちも、そのような認識をもって見ていくべきだ、と訴えているように、私には思えます。
価格(1,000円)と与えてくれる情報の精度の面から見て、本書は非常に良いバランスを持っていると思います。これまでシーア派とスンニ派について、的を射た説明に出会ったことがないという方には、ぜひご一読なさることをお勧めします。恐らく、概論的な知識は十分、本書によって得ることができるものと、私は確信しています。
[了]
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