聖書翻訳を考える ─「現代訳」聖書をめぐる諸問題

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今日は、以下のニュースを読んで、考えたことを書きたいと思います。

旧新約全巻で厚さ20ミリ、VIPに新しい聖書登場
http://www.christiantoday.co.jp/main/mission-news-1021.html

上の記事中で、「VIP」とあるのは、「インターナショナル・VIPクラブ」のことで、クリスチャンビジネスマンを対象にした伝道と交流を目的とした団体のことです。VIPは福音的キリスト教界ではかなり知られた団体だと思いますので、あるいは聞いたことがある方もおられるかも知れません。(私の父も関わりがあります)。

さて、上の記事を読んで、私なりに、いくつかのいくつか問題点を感じました。

(1) 記事のタイトルにある「新しい聖書」という文言が誤解を与えかねない

そもそも「新しい」とはどういうことでしょうか。明鏡国語辞典を見ると、『[1]ものができて少ししか時間がたっていないさま。[2]野菜や魚などがとれたてでいきいきしている。[3]まだ使われていない、未使用だ。[4]今までにない特徴を持っているさま。[5]今までとは別の。』とあります。そこで、このような語義的理解を持った一般の人が「新しい聖書」と聞いて受ける印象はどんなものでしょう。恐らくは「何だ『新しい聖書』って。従来のとは全く別の聖書でも書かれたのかな?」というようなものでしょう。

そこに危惧を感じます。なぜなら聖書は「新しい」ものではなく、むしろ「古典中の古典」だからです。新約聖書の最古の写本はA.D.90年代にまでさかのぼり、旧約聖書は紀元前の時代です。聖書は、そのような昔から今に至るまで、原文に対する厳しい本文批評的検証によって吟味され、その聖典としての価値を認められてきました。そして、そのような古い書物でありながら、その発するメッセージは2000年を経た現代でも古びるどころか、むしろ一層の説得力、また時代考察力をもったものとして認められています。しかも、人間の本質への深い洞察は、他の如何なる書物によっても、代えられるものではありません。ですから、聖書に「新しい」という形容詞を与えることは、これまで受け継がれてきた聖書の普遍的価値を「時代遅れ」と見なし、「新しい視点、従来とは一線を画する理解にたった聖書」という誤解を与える可能性があり、不適切と考えます。

この記事を書いた人は、そこまでは意図していないことでしょう。恐らく、「旧約と新約が両方入って、20ミリとは画期的だ。重くなく、持ち歩ける!」という、「体裁」の次元で「新しい」ということばを使っているのでしょう。しかし、クリスチャンならばともかく、一般の人は、皆がそう理解してくれるでしょうか? そうではないと思います。聖書は分厚いものだ、という前提を持たない人にとっては、「内容の新しさ」だと思うことでしょう。それを危惧します。というのは、実はこの聖書は、内容的にも『新しい』ものだからです。

(2) 翻訳に、個人訳である「現代訳」を使用している

この聖書は、日本で現在広く流通している3つの翻訳(新改訳、新共同訳、口語訳)のいずれでもない、「現代訳」という翻訳を採用しています。これは、尾山令仁先生がひとりで旧新約すべてを翻訳したものです。尾山先生のプロフィールについては本稿の範囲を超えるので扱いませんが、たくさんの書物を書かれた博識の方であることは確かです。しかし、博識であるからと言って、個人で聖書翻訳を行い、しかもそれを「聖書」という名で世に出すということには大きな問題があります。以下の理由からです。

[1] その学問的妥当性に疑問がある。

聖書翻訳は、つねに進歩しています。それは、遺跡などの考古学的発見によって、聖書の時代背景の理解が日々進むことや、文法的研究が進むことがあります。世界中で何千何万という聖書学者が、日々、聖書原文を研究し続け、論文や書物の形で発表しています。そのすべてを一人で追うことは、到底不可能なことです。ただでさえ膨大な章節に及ぶ聖書原文の一節一節、あるいは一句一句に対し、日々検討が加えられています。私が神学校の卒業論文で扱ったのは、詩篇51篇の5~6節についてでしたが、そのたった2節を扱うために、75ページの論文を書きました。これはあくまで一例です。 聖書は、一人の学者が扱うにはあまりにも深く、あまりにも広いのです。ですから、どのような聖書翻訳であっても、通常は数十人規模のチームを組んで行われます。それでも、訳が完成した後に、もう少し検討が必要だったと言うことが分かって、後から改訂が出るほどです。(新改訳も、2003年に第二版→第三版になりました)。聖書翻訳は一人で世に問うほどのものはできないのです。「できる」と思う気持ちも分からないではありませんが、それはすべきではない、いや高慢ですらあると、私は考えます。

[2] 個人の偏った視点が入る可能性がある

これはいうまでもないことですが、一人で訳しているのですから、訳の妥当性を巡って複数人で議論するということはしていないわけです。すると、その必然的帰結として、訳し方に尾山先生個人の見解が色濃く反映することになります。読む人は、それを「聖書=神のことば」として読みますが、実際は一個人の見解なのです。その危険性はどれほどでしょうか。聖書翻訳は、様々な学問的経験、神学的背景を持つ者が集まり、神の導きを求めて祈り、議論し、検討を重ね、共同のわざとして作りあげていくべきものです。個人が密室で行う作業ではありません。

[3]  訳文の継続的発展性に重大な懸念がある

個人訳の問題の最大のものと言って良いのが、これです。団体ではなく個人が訳している場合、その訳者が召されれば、その訳は「終わり」です。将来性はそこで断たれます。誰も、その個人になりかわって、引き継ぐことは不可能です。なぜなら、議論のプロセスを経ていないため、訳者の考え方を誰も知らないからです。 また、もし発行後に訳の誤りを発見した場合(聖書は原文では誤りはありませんが、訳文には誤りがありえます)、もし訳者が召されていれば、改訂すらできません。そして、改訂のない翻訳は、時代とともに廃れていきます。 ですから、「聖書を翻訳する」ということの重大性に気付いている者は、個人訳のこの問題性に気付いており、必然的に、教会間協力の実としての翻訳団体が、継続的事業として翻訳を行うのが妥当だと考えるでしょう。

私が個人訳を出す著名な先生方の発想に疑問を抱くのは、このような
視点からです。本当に、これらの課題を真剣に考えるならば、個人訳を出すことのメリットよりも、デメリットの方がはるかに大きいことが分かるはずです。それを押してでも、個人訳を出す理由がどこにあるのでしょうか。 およそ、個人訳を出す方は、名の通った方であることが多いように思います。そう言う場合、「自分の牧会人生の集大成として『聖書』を訳してみたい」という誘惑が心のどこかにないか、徹底的に探られてしかるべき、と思います。なぜ新改訳や新共同訳、あるいは口語訳ではだめなのか。自分一人が「聖書」の名を付けて出版することに、抵抗感はないのか。問われるべきでしょう。

[4] 印税の問題

これは、この世的問題ではありますが、避けては通れない所です。個人訳の場合、それを採用した出版物が発行されると、印税はすべて「その個人」に入ります。これは、大きな誘惑になり得ます。事実、聞いた話ですが、ギデオン協会が「新改訳よりも版権が安いから」との理由である個人訳(尾山訳とは別のもの)を採用し、それを「聖書」として配布していることについて、訳者である方には、かなりの額の印税が支払われたと聞いたことがあります。決して少なくない額です。これは、問題ではないでしょうか。一個人が「聖書」を出版することで対価を得る。神様ではなく、人に栄誉が帰されているとしか、私には思えません。もちろん、では団体が訳せば問題は解決かと言えば、決してそう単純にはいきませんが、少なくとも、「教会間の祈りによる協力と一致」という点が、個人訳よりははるかに健全な翻訳の土台であるとは言えるでしょう。 個人がお金や栄誉を求める時、それはどんなに高名で実績を残された方であっても、その実績が大きければ大きいほど、大きな罪の危険をもたらす。これこそ聖書が私たちに教えていることではないでしょうか。

(3) インターナショナルVIPクラブの神学的立場に対する懸念

今回のような話がVIPクラブ主導で出てくる所を見ると、この団体の「神のことば」に対する忠実さに疑問符を付けたくなります。「軽くて薄くていい。ビジネスマンにうってつけだ」という点を「ウリ」にするなら、なぜ、新改訳や新共同訳ではなく、信頼性や諸教会からの承認が皆無に等しい、個人訳を採用するのか。その理由が明確にはされず、尾山訳の『良い点』だけをアピールしています。いち宣教団体にすぎず、教派の承認も受けていない団体が、このような行為をすることは、大いに問題だと思います。

これも聞いた話ですが、VIPクラブの会合では、牧師や他の教職者は排除される傾向があるとのことです。「レイマンの団体だから」というのがその理由でしょうが、正規の神学教育を受けた者を排除して、果たして神学的健全さを保てるのか、大いに疑問です。あるVIPの会合では、「聖書的セカンドチャンス論」などの著書で物議を醸している、ある先生を講師に招いたとも聞きます。それに加えて、今回の個人訳奨励の動き。懸念が残ります。

ビジネスマン伝道というせっかくの良い着眼点が、神のことばに対する謙虚な姿勢を欠くことでズレていってしまうとすれば、それは本当に残念なことです。実用性や利便性ももちろん大事ですが、中身の正当性が問われるような動きには慎重であるべきと、改めて思わされた一件でした。

長文にお付き合い下さり感謝!

コメント

  1. ステフ より:

    ハロー!!!このブログ見つかったよ!:):)

  2. y sugahara より:

    詳しく紹介してくださってありがとうございます。
     私も、ほんとにその通りだと思うんですが、宣教会出身以外の人にも、共感してもらえるといいですね。
     ちなみに、以前、内田先生が問題視して、論文を書いていた、相手の若手神学者の方も、マルコとマタイの私訳を出版してますね。その方は組織神学の専門家だと思いますが、個人的にはどういう神経なんだろうと思います。おそらく、聖書釈義は組織神学の理解のためのツールにしかすぎないという意識なんでしょうかね?主だった註解書を読めたら、私訳は造ることはできるでしょうが、それでいいんでしょうかね?

  3. j.aoyama より:

    全く同感です!
    記事とは関係ないけど、Christian Todayというサイトも怪しいです。Christianity Todayと似てるけど、大違い!