久しぶりのブログ更新になります(先日、別の記事を書いたのですが、アップする直前、ショートカットキーの押し間違いで全てパーになりました)。
今日は、この河北新報の記事を題材に、政治家の報酬について思うところを書きたいと思います。
大和町というのは仙台市の北側に位置する町で、最近はトヨタ自動車などの大企業が次々と進出し、東北道のインターチェンジもできるなど、成長著しい町です。その町の政治を担う町議会議員の報酬を4万円上げよう、というものです。
もともとはいくらだったのかというと、約24万円だそうです。手取りなのか額面なのかが分からないのですが、たとえ手取りだとしても、です。この金額は明らかに、いや不当なまでに低すぎる、と私は考えます。
24万円という額は、入社3~4年目の新入社員と同じ額であり、この金額では生活はできるでしょうが、議員としての活動は成り立たないのは明白です。すなわち郵送費、本代、交通費、通信費、研修費などは、この額では到底賄うことはできません。 ではどうやって議員活動をしているのか。二つの道しかありません。すなわち、(1)副業として議員をやる。(2)自分の資産を使う、です。
しかし、当然のことながら、副業として政治をするような人に、まともな政治活動ができるとは思えません。「町のことは、仕事の空いた時間にやる」。これでその町が良くなるでしょうか。せいぜい現状維持が精一杯でしょう。 また、自分の資産を用いて政治をするということは、裏を返せば、「資産家以外は政治に参加できないことになる」ということです。 つまり、何のコネも資産もない若い世代が政治家として食べていくことは至難の業、ということです。 結果として、政治は資産家や資産家の子孫といった一部のエスタブリッシュメント層に握られることになります。 一般的に言って、エスタブリッシュメント層は自分の権益を守ろうとし、変化を望まない傾向にあります。 つまり、「現状を変えないこと=政治」という理解で政治をやろうとする、ということです。
この傾向は、何も町議会に限った話ではなく、県議会→国会という風にのぼっていけば行くほど強まると言っても過言ではないでしょう。国政ともなれば選挙区も広く、通信費や交通費等で、町議とは比較にならないお金が掛かることは自明です。
新聞の投書欄を読んでいると、時折、「国会議員はまず自分の身を切ってから増税せよ」などといった意見が散見されます。 私はそのような意見を見るたびに、実はそれが、政治参加の道を狭くし、ますます「変化」を遠ざけていることに気がつかないのか、と暗鬱とした気持ちになります。
そもそも、国会議員の報酬を何割か削ったところで、削減額はせいぜい10億以上100億以下の単位にすぎません。 国家予算全体から見れば微々たる額であり、削減したところで国の財政に何の意味もありません。 つまりこれは単なるパフォーマンスにすぎないのです。 そして、常日頃政治家のパフォーマンスを非難しているにもかかわらず、議員報酬については「身を切れ」と言ってパフォーマンスを要求するならば、それは自己矛盾でしかありません。 日本人は、こういう自己矛盾を普段から行っていながら、おかしいとも思わないのです。
そもそも、「国を預かる立場」からすれば、私の感覚からすれば、現在の国会議員の報酬はむしろ低いくらいだ、と言っても良いと思います。 なぜ日本の国全体に対して責任を負っている人が、一般企業の取締役クラスの人と同程度か、それ以下の報酬しか与えられないのでしょうか(総理大臣の月額報酬は207万円だそうです。つまり一年間で3000万円余り、でしょう)。 責任から見れば5~10倍、いやもっと重いものが負わされているのです。 明らかに、現在の報酬は、それに見合った額ではありません。
それでも一般大衆は「報酬が高すぎる!」と声高に叫びます。 それは、「政治家は清貧を是とするのが当然である」という誤った思い込みがあるからです。 私はこの手の思い込みこそ、日本の政治をダメにしてきた根本であると思います。 清貧という言葉だけでは生活は成り立ちません。 どこかでかならず政治家本人が身を切っているわけです。 もちろん庶民には限界があるので、資産家かその子孫しか政治家になれない → 庶民の声が国会に届かない → ますます政治不信が募る、という悪循環に陥ります。
私はこの悪循環を絶つには、むしろ議員報酬を大幅に上げ、献金には上限を設け、なおかつ完全に透明化するという方策が必要と考えます。 そして、その上で、もし職務に対する背任行為が発見された場合は、その刑事責任を厳しく罰する仕組みとするのです。
現在の所、政治家が不正行為で刑事罰を受けることはかなり稀です。 また、政治家がその判断の誤りを後から問われることは、まずありません。 たとえば、自民党は原発を強力に推進してきましたが、震災後の福島第一原発の事故については、素知らぬ顔を通そうとしています。 私は、職務上の安全管理義務を怠ったということで、歴代の通産相や首相経験者が責任を負うべき問題だと考えていますが、そういう雰囲気は微塵もありません。
要するに、日本という国は、国民が政治家をチェックし、その職務を的確に果たしているかをきちんと吟味し、背任行為に対しては厳罰で臨む、というあり方が全く無いわけです。それが問題だと言えましょう。
「責任に応じた報酬を与える。責任が重ければ重いほど報酬も増額する。 但し、責任を果たさなかった場合はそれ相応の償いをさせる」
この原則が重要でしょう。 現実には、このような仕組みが導入される可能性は極めて乏しいと思います。 先述したように、日本人の中に「政治家は清貧たるべし」という誤った認識がある限りは、難しいと思われます。
政治家の人間性や人格に期待し、何となく期待するというあり方は、学級委員であれば問題ないでしょうが、国会議員に対する認識としては、余りにも素朴すぎます。 責任ある働きには報酬をもってそれを評価し、その責任を果たさない者には厳しく臨む。
こういう体制があれば、政治家自身も緊張感を持って政治に専念できると思うのです。 もっぱら使命感や正義感から政治家になるのが良い、というのは、人間の罪の現実を見失った見方としか、私には思えません。 人間は、それほど強い存在ではありません。 たとえ最初は理想に燃えていても、「現実」の壁にぶつかると、堕落していくものです。 国民はそこで「裏切られた」などと思ってはなりません。 「人間とはそういうものだ」と思わなければならない。 むしろ、そういう前提に立って、「政治家が緊張感を持って、金策といった政治と関係の無い分野に労力を割かずに政治に専念できるような体制を整えること」を目指さなければなりません。
そういうことをしないで、「近頃の政治家はだめだ」とか「政治不信」などといくら言ってみても、虚しいだけです。 私は「政治不信」という言葉は、実は、「政治家を育てられない国民の劣化」であると考えます。一部の人間に責任を押しつけ、十分な報酬も与えず、何かあると糾弾する。 その人を支え、成長を見まもるという視野を持たず、一朝一夕で評価をころころ変える。 そういう愚かな国民が、こういう政治家を生み出しているのです。
政治の仕組みを変えなければなりません。 責任ある働きには、それがきちんと報われ、憂いなく務められるような報酬体系とし、背任行為には厳罰で望む。 私は、これ以外に政治が変わっていく道は無いと思います。
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