キリスト者として、自民党の改憲草案に反対する

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世の中は12/16の衆院選に向けた動きで、にわかに色めき立っています。 現在の所、世論調査では自民党が第一党を確保する可能性が高い訳ですが、仮に自民党が政権を取った場合、改憲を目指した動きが活発になる可能性は、決して低くはありません。

 

そこで、この機会にもう一度自民党の改憲案を見直してみました。 そのために、以下の記事が大変参考になりました。

 

『日本国憲法改正草案』がヤバすぎだ、と話題に・・・

 

タイトルとは裏腹に、現行憲法と改憲案を見やすく並記してあるなど、基礎資料としての価値があるページなので、ぜひ見て頂きたいと思います。 国の将来が掛かっているからです。

 

戦争放棄の条項が削除されたり、基本的人権の条項が改悪されたりと、既に非常に大きな問題が指摘されている所です。 もしこのまま憲法が改定されたりすると、これまでの自民党の傾向からいって、どのようなひどい世の中になるかは、想像に難くありません。

 

けれども本稿の目的は「宗教者として」、この改憲案を吟味することです。 従って、当然ながら20条に注目する訳です。 上記解説ページでもこの条文は見事にスルーされてしまっていますが、決して見逃すことのできない改悪部分が存在しています。

 

まず現行憲法を以下に貼っておきます。

 

 

第二十条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。いかなる宗教団体も、国から特権を受け、又は政治上の権力を行使してはならない
② 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
③ 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。

 

これに対して、自民党の改憲草案では以下のようになっています。

 

 

(信教の自由)
第二十条 信教の自由は、保障する。国は、いかなる宗教団体に対しても、特権を与えてはならない。
2 何人も、宗教上の行為、祝典、儀式又は行事に参加することを強制されない。
3 国及び地方自治体その他の公共団体は、特定の宗教のための教育その他の宗教的活動をしてはならない。ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。

 

青字の部分は、特に注意すべき点です。問題点を以下に列挙します。

 

1.政教分離原則が撤廃されてしまう

 

現行憲法の二十条第一項に存在した、「又は政治上の権力を行使してはならない」という重要な文言が、そっくりそのまま削除されています。 政教分離を定める最大にして根本的な原則がここで完全に消失していることが分かります。 改憲案では、宗教団体が政治活動を事実上自由に行うことが可能になります。 さらに言えば、ある宗教団体が政治的権力を行使して敵対する宗教団体を攻撃したりあるいは非合法化するといった措置に道を開くことになるからです。 これは決して許されることではありません。 歴史を振り返れば、宗教団体が国と一体化したときには、常に悲劇が引き起こされてきました。 キリスト教会でさえ、国教化されて以後は宗教改革に至るまで基本的には信仰的純粋さを失っていき、かつての被迫害者が新たな迫害者に成り代わるという醜態を演じることになったのです。 この日本でも、明治憲法下では神道と国家が一体化し、祭政一致国家が築かれました。 その結果何が起こったかは、歴史が証明する所です。 宗教団体は政治に関与してはなりません。 それは現行憲法第二十条の中心であり、どこまでも尊重されるべきものです。

 

では、なぜ自民党はこのような案を作るのか。 言うまでもなくその理由は、連立を組む公明党に対する配慮であることは火を見るより明らかでしょう。 現在でも公明党と創価学会の明確な繋がりは衆知のことであり、宗教団体が権力を握っているという点で憂慮すべき事態が続いています。 ところが自民党の改憲案では、さらにこの事態が深刻化することが予想されます。 たとえば日蓮正宗といった創価学会とは敵対関係にある団体に対する圧力が行われる可能性は、大いにあり得ます(日蓮正宗に対する創価学会の攻撃性は、『聖教新聞』などを読めば明らかです。見るに堪えない罵詈雑言が毎日のように記されています。)

 

2. 社会儀礼や習俗という名目で宗教の強制が起こる

 

キリスト者が最も問題とすべきは、改憲案の第三項の最後に追加されている「ただし、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を超えないものについては、この限りでない。」という文言です。 何故問題なのか。 それは、「社会儀礼である」とか「習俗だ」という言い方をすれば、事実上、いかなる宗教行事でも、政治が関与し、主体的に執り行うことが可能になるからです。

 

そもそも「社会儀礼」とか「習俗」という用語は曖昧模糊としたものであり、使う者によっていかようにも解釈できるものです。 つまりこの文言は、権力者が自らの欲する宗教儀礼を「社会儀礼」とか「習俗」の名のもとに無制限に行うことを可能にする。 そういう表現だと言って良いのです。

 

これはキリスト者にとっては決して見過ごす事のできない変化です。 たとえば、公立学校や公共施設において、従来は政教分離原則のゆえに制限されてきた神道的行事、あるいは仏教的行事が、公然と行われるようになり、「宗教ではない」の名の下に、キリスト者も宗教儀礼を強制されるようになる可能性が生じるからです。 いや、このような改憲案を考えるということ自体が、そういう目論見でなされていると断言してもよいでしょう。

 

この文言が致命的に問題なのは、「何が宗教儀礼であって、何が宗教儀礼でないかは、人によって理解が異なる」という当然の前提を、完全に否定しているからです。 キリスト者にとっては、地鎮祭や初詣、どんと祭といった行事は「明確な宗教儀礼」以外の何物でもありません。 ところが「これは日本の文化であり習俗だ」と言えば、キリスト者はそのように考えることが許されなくなる訳です。 つまり、判断の自由を奪われるということです。

 

そもそも、「文化」や『宗教」、あるいは「習俗」を規定することは、国家権力が行うことではありません。 それは市民のものであり、多種多様な価値観のなかで、互いを尊重しあって、共生の理念のもとに醸成されていくべきものです。 ところが自民党の改憲案では、「これが日本人だ。 これが日本文化だ。 これが習俗だ」というものが、一意に規定されることになります。 このこと、つまり「日本人」を枠に当てはめ、逸脱を許さないシステムを造り上げる。 このことこそ、自民党が本来目指しているものなのです。

 

今回の投稿を書くにあたって、改めて現行憲法の前文を読み直してみましたが、何と崇高な文言でしょうか涙が出ました。 世界を見回しても、これ程素晴らしい前文を持つ憲法はないのではないか。 本気でそう思ったほどです。 それに引き替え、自民党の改憲案の前文が生み出す「ことば」の何と軽く、何と空疎なことでしょう。 内側にあるものが「ことば」になっていると考えるならば、現行憲法を考えた人々の思い描いた世界と、自民党の考える世界は、余りにもかけ離れた世界と言わざるを得ません。

 

「現在の憲法は問題だ、だから変えよう」。 巷はそのような雰囲気に押し流れつつあります。 私たちは、余りよく考えもせずに、その「空気」に流されてしまってはいないでしょうか

 

問題なのは現行憲法ではありません。 その崇高な理念を理解せず、その思想を踏みにじっている政治に、問題があるのです。 修正されるべきは憲法ではなく、「公僕」でありながらこのような改憲案を考えつく政治家の心の闇の方ではないか。そう思わされます。

 

私たちはキリスト者として、この改憲案には断固として反対しなければなりません。 そうでなければ、恐ろしいことになります。 教会活動も、日本的宗教儀礼への不参加の権利も、著しく制限されることになるでしょう。 そういう意味で私たちは、日本の宣教史の転換点に差し掛かっていると言っても過言ではありません。 目下のところメディアは経済や国際問題ばかりに目を向けさせようとしていますが、そのようなお仕着せの報道に目を奪われていると、足元をすくわれることになるでしょう。 私たちは、この問題に関する限り、「蛇のようにさとく」あらねばなりません。 目を見開き、何が起ころうとしているかを、霊の目で見極めなければなりません。

 

と同時に、このような改憲案が実際に実現することがないようにと、熱心に祈らなければなりません。 それが、今回の選挙において、主がキリスト者に期待しておられる事ではないでしょうか。

(※2013/7/17追記)
宗教と憲法20条改正との関連について、宗教情報センターのサイトに、大嘗祭や新嘗祭などに関
係する過去の憲法論議も加えた、より詳しい記事が書かれています。キリスト教の立場と言うよりも、より広く「宗教界」から、という視点にはなりますが、参
考になりますので、ぜひご覧下さい。

「憲法改正が宗教界に与える影響―信教の自由と政教分離」
http://www.circam.jp/reports/02/detail/id=4267

コメント

  1. 管理人 より:

    東様、コメントありがとうございます。
    なんとも拙い文章ではございますが、もし幾ばくかのお役に立てますならば、引用・リンクして下さって結構です。祈りつつ。

  2. より:

    御名を賛美致します。
    自民党の改憲案は非常に問題ですね。
    小生のサイトにこの記事を引用、リンクさせて戴いても宜しいしょうか、お尋ねします。

  3. 村瀬鉄治 より:

     憲法20条改悪に反対する宗教団体の声明をインターネットで探しておりましたが見つかりませんでした。目にしたのは、この「羽村の風」のブログだけでした。私は無宗教者ですが、20条の「信教の自由」を守らなければならないと思っております。
     宗教者は、戦前の戦争に協力しております。信者を扇動した指導者もいたし、宗教者が戦争にも参加しております。これを知ったとき私は驚愕しました。私が宗教を信じないのは、仏陀やキリストが平和主義者でありながら、その教えを守らなかったことです。もちろん少数の宗教者が弾圧にもめげず反戦を唱えたことは知っております。
     ぜひ、キリスト教会の組織として日本国憲法の改悪に反対する運動に加わっていただきたいと思います。

  4. 管理人 より:

    剣さま
    政教分離原則は政治的ポリシーである、というご意見に賛成します。私もそのつもりで書いております。
    アメリカの大統領の就任式についてですが、確かに聖書を手に宣誓しますが、彼らは「God」と言うのみで、「Jesus」とはいいませんし、まして「ヤハウェ」とは絶対言いません。「どの神か、特定はあえてしない。ともかくも全知全能の神に対する宣誓をする」。これがアメリカの政教分離原則ですね。私はそれで良いと思います。
    宗教教育をむしろすべき、という提案には、ある程度は賛成致します。現在でも、高校の倫理の時間など、行われていない訳では無いと思いますが、あれでは不十分なのは明白ですね。
    ・・・
    私が剣さまの意見を読んでいて違和感を覚えた点は、「何が習俗であるかを決めるのは、無論国家権力ではありません」と仰っている所までは良いのですが、その後で、「法律の問題ですから、「社会通念」なる概念です。」と仰っていることです。これはつまり、「何が社会的儀礼かを決めるのは、国家ではないが、社会一般ではある」と言っているに等しい、ということでしょうか。
    そこが私との考え方の違いかなと思っております。私が本稿で述べていることは、「何が社会的儀礼かを決めるのは国家では無く、まして社会でも無く、それぞれの『個々人』である」ということです。
    国家も社会も、個々人の判断の領域まで踏み込んではなりません。何が社会的儀礼かを決めるのは、総体としての「社会」ではなく、あくまでも「個人」であるべきです。同じ現象を見ても、個々人によって受け取り方が違うのです。そのいう多様性、選択の自由、感じる事の自由、判断の自由が認められる現在のこの社会を守っていかねばならない。それが私の願いです。
    「社会」と「国家権力」というものは、しばしば一体化します。たとえば戦中の日本がそうでした。あの時代、個人が自由に意見を言うようなことは、考えられませんでした。言論の自由は事実上ありませんでした。社会と国家が一体化したからです。
    そして、「社会的儀礼」の名のもとに、国家神道が前面に置かれ、祭政一致国家のようなものが築かれました。その名残でしょうか。あるいは有史以来の残滓でしょうか。私のような福音的キリスト者にとって、神道的行事は明確に「宗教」なのですが、多くの日本人は、宗教行事とは思わずに初詣や地鎮祭を行っていますね。私はそうした儀礼を否定しようとしているのではありません。ただ私はそれらを行うことはありませんし、たとえ出席したとしても、頭を下げることは致しません。私にとってはそれは「社会的儀礼」ではなく「宗教」だからです。
    私が問題にしているのはそういうことです。「社会通念だから、これはしてもよいのだ」と国家が言い出せば、戦中のようなことになります。「そんな馬鹿な」と思われるのはご自由ですが、私はその危険を感じております。こういう変化は、実にゆっくりと行われるものです。自民党の改憲案は、そのような憂慮すべき方向に道を開く明確な意図をもっている、と私は見て取りました。ですから今回筆を執った次第です。
    剣さまとは、以前も尖閣問題を巡ってすこしやりとりがありました。その同じ方だとすれば、国家と社会儀礼というこの繊細なトピックに置いて、私と意見を異にすることも理解できるように思います。あまり論争のような形になるのもどうかと思いますので、この部分はこれくらいにしておきたいと思います。
    ・・とはいえ、今回のコメントは、上記の部分を除いては、全体的に私と同じことを言っているのかな、と理解しております。貴重なご意見ありがとうございました!

  5. より:

    政教分離原則は、宗教上の原理と言うより政治的ポリシィだと思います。
    つまり、国ごと相違します。
    キリスト者と言うより国民としての個人的な政治信条によるものと考えます。
    アメリカ大統領は就任時、神ヤハウェに誓いを立てることもあるそうですネ。
    現憲法も、行政、(教育)が習俗、社会的儀礼に関わることまで禁止していない筈です。
    最高裁判例をご参照ください。
    ちなみに、何が習俗であるかを決めるのは、無論国家権力ではありません(民主主義の国の国家権力とは何かについてもよく考える必要があるでしょうがーー)法律の問題ですから、「社会通念」なる概念です。
    私は、むしろ行政(公教育)は宗教一般として、
    子供たちに宗教心を定着すべく、世に存在する各宗教の目指すところを積極的に紹介べきと考えています。
    宗教者も大いに協力すべきでしょう。