アメリカという国は、世界のキリスト教の潮流の中でも非常に特異な位置付けを持った国です。とりわけアメリカにおいて福音派と呼ばれる勢力は、「キリスト教原理主義」とも言われ、イスラム原理主義との連想から、非常に極端な人々とみなされている、という現状があります。
そんな中、このアメリカにおける近代キリスト教の流れをかなり的確にまとめた記事に出会いましたので、紹介したいと思います。
「ジーザス・キャンプ ~アメリカを動かすキリスト教原理主義~」
ここに書いてあることが全て事実だとは思いませんが、しかし、著者はできるだけ冷静にまとめようとしていることが窺える良記事だと思います。
記事で述べていることは、アメリカの宗教右派勢力が、いかにして政治にコミットするようになり、時の権力者を動かして自分たちの主張、とりわけ倫理道徳面における主張を認めさせようとしてきたか、その運動の変遷についてのものです。
私がこの記事を読んで教訓として学ばされたことは、以下の二つの点です。
1.キリスト教は政治に取り入ろうとするとき、必ず腐敗していく
これは中世以来、教会が身をもって学んだはずの大切な教訓のはずです。ミラノ勅令によってローマ帝国内でキリスト教が公認され、その後「国教」となったことによって、キリスト教は著しい変容を遂げました。教会は政治権力におもねるようになり、聖書の権威よりも政治力や経済力が重んじられるようになりました。また、個々人の信仰者にとっての信仰は「社会的承認を得るための手段」や「慣習の一部」でしかなくなり、名前だけの信仰者が大量生産される時代が到来しました。聖書の救いの核心は忘れ去られ、そのいのちは失われていったのです。
ところが、アメリカの宗教右派勢力は、性倫理を始めとする世の中の変化に対して抱いた危機感を、政治力を用いて解消しようと企図しました。それは言うなれば、「自分たちの主張を他のアメリカ人に強制的に認めさせるために権力を利用しようとした」と理解して良いと思います。
本来、人間には自由意志が与えられています。人間には罪を犯す自由さえ与えられていることは、創世記が証明している所です。もちろんその自由には責任も伴います。選択には常に結果が伴うのです。しかし、究極のところ、それはあくまでも個々人の範疇に属することであって、他人にそれを強制することはできません。それが「信教の自由」の精神であろうと思います。
ところが、政治権力に取り入ろうとする行動は、この精神を自ら否定したことになります。あくまでも個々人の領域に属することを、権力を用いて強制することになるからです。それは聖書の教える所ではありません。
もちろんこのことは、政治に無関心であれ、という意味ではありません。聖書は政治に関心を持ち、また「上に立つ者のために祈れ」と教えているからです。しかし、政治に関心を持つということと、政治家を動かして自らの主張を一般に受け入れさせる、ということは完璧に異なる話です。アメリカ政治における宗教右派勢力がしてきたことはまさしくこのことです。
その結果はどうでしょうか。国を二分するような鋭い対立が起こり、政治は分断され、より社会保障や福祉など、本来良きものであるはずの政策において、深刻な敵対関係が発生するのです。右派は、「聖書の権威」を持ち出して、自らの主張の正当性を主張し、左派はその聖書の権威を認めないのですから、かみあうはずがありません。
私は、このような状況になった主たる責任は、宗教右派の側にあると考えます。本来持ち込むべきでは無い主張を、政治力を利用して実現しようとしたからです。さらに、聖書の権威をその根拠として利用しようとしたからです。本来結合すべきでないものを結合させてしまい、その結果として、一般の人々に「原理主義」と呼ばせる隙を与えてしまいました。その責任は重いと思います。
2.キリスト教は「倫理」を前面に押し出すとき、いのちを失っていく
宗教右派の主要な目標は、「聖書の説く倫理道徳の復権」にあります。確かにその主張は分からないでもありません。妊娠中絶、離婚、薬物や犯罪の蔓延…。アメリカ社会を覆う「陰」を前にして心を痛め、「これではいけない、世の中を変えなければ!古き良き時代を取り戻さなければ!聖書の価値観を回復させなければ!」と思う。それ自体は、非難されるべきことではなく、いやむしろ、キリスト者として自然な感情だと言えましょう。
しかし、ここに落とし穴があります。それは、このような主張が先鋭化していくと、いつしかそれ自体が自己目的化してしまい、キリスト教が本来持っているメッセージが薄められていくからです。
誤解を恐れずに言えば「キリスト教とは倫理道徳の宗教ではない」のです。そのように考えた典型例が新約聖書に登場するパリサイ人や律法学者であり、イエスは信仰を倫理道徳の世界に置き換えてしまった彼らを厳しく批判したのです。信仰とは「神への人格的信頼と交わり」をこそ、その主眼としているものです。倫理や道徳というのは、まず神との正しい関係が築かれ、その結果として成し遂げられるものです。逆ではありません。
ですから、「倫理道徳」をその主義主張の中心に置こうとする者は、キリスト教の中心がどこにあるかを誤解していると言わざるをえません。宗教右派勢力がしてきたのはまさにそういうことなのです。
さらに、もう一点忘れてはならないことがあります。それは、「生命倫理や性倫理というものは、その厳密な根拠を聖書に求めることができないものが多々ある」、ということです。例えば試験管ベビー、遺伝子治療、出生前診断、性同一性障害・・・。私にはこれらの問題については、聖書は「何らかの方向性を示唆するところに留まっている」、と見ています。それは、聖書が書かれた時代には現代のような医療技術が無かったことからしても当然なことだと言えましょう。
私たちは、聖書が沈黙していることについては、聖書を根拠として白黒をつけると言うことは、慎まなければなりません。「神のことばの権威」を、このような微妙な領域に安易に引っ張り出し、他者を非難するための根拠にしてはならないのです。何より、そのようなことをすれば、聖書の権威を否定する立場に人にとっては格好の批
判材料を与えるだけです。
もちろんこのことは、「これらの問題は避けて通れ」という意味ではありません。私たちは聖書から教えられて、これらの事柄についても一定の見解を自分の中で、持っているべきでしょう。しかしそれは絶対では無い。「こうでなければならない」と人に断言できるようなものではない、ということです。個々人の判断が尊重されるべきであり、人に押しつけてはならない。間違っても政治力を行使してそれを行おうなどと考えてはならない、のです。
聖書は倫理道徳の教科書ではありません。もちろん多くの部分を割いてそのことを語っていますが、聖書の本質は「神とは何かを人間に示し、その神とのあるべき関係を指し示し、人間がそこに立ち戻るための回復の道筋を示す」ことにこそあるのです。キリスト者がこの精神よりも、倫理道徳を前面に押し出すとき、それはキリスト教が命を失い、単なるヒューマニズムに陥った瞬間だと言えるでしょう。
もちろん、宗教右派の人々はこのことを理解しているとは思います。しかし、その実現に「愛のわざ」ではなく、「政治力」を利用しようとしているところに、最大の過ちがあるのです。政治家を動かすことは、手っ取り早い手段です。現代はだれもが「インスタント」や「効率」を求める時代ですから、そうなるのも頷けます。しかし、だからこそキリスト者はそのようなものに陥る誘惑を断固として退けなければならないと信じます。何よりそれは「神の力に頼るよりも人間に頼る信仰」を生み出していきます。この点こそ、最も注意しなければならないことでしょう。
元記事を書いた方は、恐らくキリスト者ではないと思うのですが、にもかかわらず、宗教右派の人々が追い求めているものが変容してしまっていることを見抜いています。本来は、キリスト者こそそのことにまず気づかなければならない者であるにも関わらず、です。
日本に住む私たちにとっても、対岸の火事と見てはいられません。日本にはまた違った文脈で、ここに書いたことは当てはまる事でしょう。注意深く、知恵を持って見つめていきたいと思います。
コメント
「聖書は倫理道徳の教科書ではありません。」
その通りです!
内村鑑三先生も「キリスト教問答」の中で
同じように言っておられます。
原理主義について、非常にすっきりとまとまっ
た考察だと思いました。
戦争はしてはいけないね。見つけました。昔見た時とだいぶ内容が変わっているね。お久しぶりです。