今日は、またまた「わが意を得たり」の記事に出会いましたので紹介します。
問題解決には「情報を集めない生き方」が有効 [日経ビジネスオンライン]
立教大学教授の前田英樹さんという方のインタビュー記事です。書いてある内容は「学ぶとは、情報をできるだけ多く集め、整理・分類し、吸収することである」という現代の風潮に対する反証、といったところです。いくつか心にとまった所を引用したいと思います。
「かつて刊本のない時代、書物は筆で写すほかありませんでした。いまからすれば、甚だしい情報不足です。けれど、本質的な学問は、そういう時代につくられました。この事実をどう考えればいいでしょう。」
これはまさに、聖書にそのままあてはまることです。聖書は分厚い書物ではありますが、情報量にすれば、新旧約合わせて4MB程度にしかなりません。しかも、中間時代に70万巻の蔵書を有したアレキサンドリアの巨大な図書館に比べれば、聖書は全部合わせても、たかだか数百のオーダーにすぎなかったでしょう。しかし、聖書の伝える真理の輝きは、その時代から今まで一向に色褪せることはないのです。一方、近代を振り返るならば、
「情報は多い程よい」
という幻想が、私たちを取り巻いているように思います。人々は「もっと多くの情報を得たい」という願いに突き動かされて電話を作り、無線技術を発達させ、ジェット機を生み出し、宇宙船を発明した。そういう意味では、これはいわゆるモダニズムの時代を通じて人間を突き動かした根本原則のようなものであったといえるかもしれません。かくして現代では、IT技術の爆発的発達により、人間はいつでも膨大な情報量を自由に操作できるようになりました。けれども、ここで一歩立ち止まって考えてみたい。それは、
「情報量が増えて、人は幸福になったのか」
という問いです。私の子供時代と比べ、今の子供達は携帯電話を使いこなし、四六時中コミュニケーションを取っています。けれども、現実の問題への適応能力という点では、むしろ低下しているように思えるのです。非常に繊細で、一度の失敗に弱く、真理を探究する姿勢が弱いように思えるのです。
もちろん、成人した者ならば誰でもそうする「昔は○○だったのに」という懐古趣味的上から目線が多少なりとも入っていることは否定しませんが、それを差し引いても、やはり情報量の増大が幸福に繋がっていないように、私には思えるのです。
それは、当の私自身に最もあてはまります。例えば説教準備をしている際、PC上で聖書解析ソフトを駆使する私は、昔ならば膨大な時間を割いて辞書をめくっていた作業を、数クリックで終えます。瞬時に膨大な情報を得ています。注解書もPC上で閲覧し、数時間足らずで4~5人の著者の見解をまとめることができます。
けれども、それが説教の豊かさにかならずしもつながらない、いや、かえって何を語るべきか迷うことになることも、しばしば体験するのです。そういう体験を通して私は、「個々の人間が処理・吸収できる情報量には限界があり、しかも、たとえ吸収したからと言って、それを『生かす』ことができるかは、まるで別問題である」ということを実感するようになりました。
そこで今日の記事です。うーん、とうなりました。まさにこれだよな、と思いました。再び引用します。
「そもそも「効率がよい」ことが善だというのは、根も葉もないことですよ。そんなことは、人間に判断つきません。何が善くて悪いかなど、生きてみなければわからないことが多い。」
その通りです。そうなんですよ。「今ここにある自分、そして主なる神」を抜きにして、目先の効率や量を追求するのは幻影を追うようなものなのです。考えてきたことが、やっと形にされてきたように思います。
現実にはそれでも、「情報欲」なるものに突き動かされ、テレビやネットや携帯や音楽といった「情報」に、なかば中毒患者のように依存して生きてしまう私たち。けれども、それこそがサタンの巧妙なる罠なのではないか。
聖書が、あのような情報の極めて乏しい時代に生み出されたのは神の知恵ではないかとさえ思わされた、今日の私でした。
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