今日は広島への原爆投下日です。原爆資料館を3度訪問し、広島に3ヶ月ですが在住した者として、この日を厳粛な思いで迎えました。
ところが、一昨日のことですが、以下のような記事が朝日新聞の一面に掲載されました。
リンク先はWeb版としてタイトルも内容も大幅に簡略化され重要なところがカットされていますので、以下に東京本社配電の記事から全文引用したいと思います。
米空軍が、有事の核ミサイル発射を担う将校向けの訓練の一環として、キリスト教の「聖戦」論を初年以上にわたり講義してきたことがわかった。「憲法の政教分離原則に違反する」との指摘を受け、今年7月末に突然、取りやめていた。 米国と旧ソ連・ロシアの間では、冷戦末期から核軍縮が進展。核保有の必然性や使用の可能性は薄れてきた。民主的な議論とは無縁の「神話」によって、核の道義的な正当化を試み、延命を図ってきたことに、懸念の声が出ている。 問題の講義をしていたのは、カリフォルニア州にあるパンデンバーグ空軍基地。ミサイル発射を担当する空軍の将校は全員、この基地で核について訓練を受ける。憂慮した複数の軍人から通報されたNPO「軍における信仰の自由財団」が情報公開制度で資料を入手、問題が明るみに出た。 取材に答えた空軍教育訓練司令部によると、訓練初期にある倫理の講義を担当する従軍牧師が用いた資料が、「核の倫理」という項目で、旧約・新約聖書の記述を多数引用していた。キリスト教の聖戦論を引き合いに「旧約聖書には、戦争に従事した信者の例が多い」と指摘したり、聖書の記述として「イエス・キリストは強い戦士」と位置づけたりしていた。 資料はその上で、広島への原爆投下にも言及。被爆・地の写真や被爆者の顔写真を掲げ「8万人が即死」などと威力の説明を加えた。 だが、続く説明で「東京大空襲は一夜で8万~10万人が死亡」と、被害を相対的に少なくみせるように記述。原爆投下を決めたトルーマン大統領就任時の米兵死者が「1日平均900人以上だった」と主張し、また「日独は、もし原爆を先に開発したら使うと明言していた」とも指摘。事実上、原爆使用を正当化した。 米国は核兵器を抑止力として位置づけ、攻撃を受けた際の報復手段としては使用が正当他されうるとしてきた。元空軍将校で、ホワイトハウス法律顧問も務めたワインスタイン同財団理事長は「核発射の判断を宗教と結びつけるなど、正気の沙汰ではない」と語った。 指摘を受け、同司令部は7月釘目、講義を中止した。広報担当官は「過去の講義は違憲ではない」と取材に答えた。 (ロサンゼルス=藤えりか)
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話としては、良く聞くものであり、特別に珍しいものではないかもしれません。「ああ、またか」と思うかもしれません。しかし、以下の点において、これは見逃してはならない事件だと言えるでしょう。
1.初期イスラエル史理解の根本的な誤り
記事中には「キリスト教の聖戦論を引き合いに」とありますが、そもそもキリスト教神学には「聖戦」という概念はありません。確かに、旧約聖書には戦いの記述は多く見られます。しかしそれは、人間の都合を推し進めるために人間によって引き起こされる戦争とは根本的に異なるものです。イスラエルによるカナンの占領は、「神に由来するもの」でした。そもそもカナンを前にしたイスラエル人は恐れおののいていました。世界最古の要塞都市であり、堅固な防備を誇るエリコの町や、高身長で知られる巨人族が彼らの行く手には待ち構えていました。もともtエジプトで奴隷状態であったイスラエル人は、戦闘経験などあるわけもなく、武器もろくなものがない。これを単なる戦争として戦略論だけで見るならば、イスラエル人はただ人数が多いだけで、他のあらゆる面で勝ち目は無かったのです。
ところが、神がその戦いの趨勢を決めました。ときの声を上げるとエリコの城壁が崩れ去り、アイの町はもぬけの空になりました。こういうことは明らかに人間の領域を超えたことです。あり得ない事、歴史上希有な出来事だったのであって、二度、三度、いや今もあると期待してはならないし、そうすべきでもない。これが、イスラエルのカナン占領の「特殊性」です。
ところがこの事例を、自分たちの行動を正当化するために用いる人々がいます。それが今回の記事に登場する人々なのです。彼らは「神のことばである聖書と自分たちの主張を同一化する」という、致命的な誤りを犯しているのです。
2.時代背景を無視した聖書解釈
旧約聖書の時代は現代と全く情勢が異なるということも忘れてはいけません。当時、世界中で創造者なる真の神を知っている民族はイスラエルだけでした。他の民族は木や石や太陽といった「被造物」を崇拝していました。そればかりでなく、魔術や呪術、礼拝としての性行為、あるいは豊穣祈願のため子供をいけにえとする、などの異様な宗教儀礼に傾斜していました。そのような実情を見て神は心を痛め、彼らに対して400年もの間悔い改めの機会を与えて「待った」のです。その間、イスラエル人はどうなったか。何と、彼らの方がエジプトで奴隷状態に置かれ、苦難を経験しました。そして400年たってもカナンの人々が何一つ悔い改めないばかりか、むしろその罪が日増しに増大していることが明らかになったとき、初めて神はイスラエルをカナンへと導かれたのです。
ですから、聖書の神はカナン人を一方的な「悪」とし、イスラエル人は全面的に「善」だなどといった、単純な善悪二元論で区別することはないのです。イスラエルでさえ、神の御心にそむいて歩み続けたときは国の滅亡の憂き目に遭いました。それは歴史が証明しています。ですから、重要なのは「神のことばを、それに相応しく扱い、神ご自身に忠実に歩む」という、私たち一人一人の個人的な歩みこそが問われているのだ、ということです。
今回のアメリカ軍の行動は、そういう聖書の全体的な理解を全く無視して、イスラエルによるカナン占領だけを取り出し「自国アメリカは善、それ以外(特に共産主義やイスラム)は悪」という風に、単純な善悪二元論に置き換えているという点に、致命的な問題点があるのです。つまり、聖書の解釈の仕方が根本的に間違っているということです。
3.罪の理解の誤り
アメリカではよく、「戦争の大義」なるものが語られることがあります。より大きな「義」のために少々の「不義」には目をつむる、という発想です。しかし、聖書にはそのような発想はどこにもありません。そもそも、罪をそのように区分すること自体が、「罪」を取り違えています。聖書的な罪の概念とは、表に出た行動というよりもむしろ、「自己中心と高慢」という内側のあり方の問題に焦点を当てています。そのことを理解していないので、「アメリカ兵を救うためであれば日本人の非戦闘員10万人が一瞬で死んでも問題は無い」という論理がまかり通るのであり、また、「アメリカの戦いは悪に対する聖戦なのだから、ためらわずに核ミサイルのボタンを押せ」という発想になるのです。自分の立場は正しい、という自己正当化。創世記3章で、アダムとエバがしたことは、まさにこのことです。そして、これこそ自己中心の極み、と言えるでしょう。そのような戦いのどこが「聖戦」なのでしょうか。「汚戦」ではないでしょうか。
4.客観性の著しい不足(=自己中心性)
今回の事例においては、イスラムや共産主義に対する「聖戦」が念頭にあったのでしょう。確かに近年、イスラム原理主義の立場に立つ一部の過激派によるテロが繰り返されています。その度に、西側諸国は非難声明を出したり「人権」を声高に主張します。しかし、そのようにして相手の「聖戦(ジハード)」を非難しながら、その裏で自分たちも「別の聖戦」を教えている。これは笑い話でしかありません。
私たち日本人キリスト者の感覚からすると、このことは自明なのですが、なぜかアメリカの最も保守的なキリスト者にはそうではないようです。そこには大いなる認識のギャップがあります。私たちの感覚では、どうしてアメリカが一方的に自分たちは善で相手を悪だと決めつけることができるのか、全く不思議でしかありませんが、彼らは「聖書」を盾にして自分の正当性を示そうとします。しかし前述の通り、聖書には彼らの主張を支持するようなことは書かれていないのです。キリストはむしろ平和の使者、愛の使者として来られたのです。救いの完成者として来られたのです。にもかかわらず、「キリストは強い戦士」などと、平気で語れてしまう。悲しい限りです。
5.黙示文学の解釈論における誤り
ただ、黙示録には終末における神の裁きが書かれています。このことを根拠に「聖戦」を持ち出す人もいます。しかし、そこにも致命的な問題があります。それは、黙示録における神の裁きは、100%神の主権によって行われることであって、人間の領域を超えた出来事だからです。このことを理解していないと、よくあるように、黙示録の描写だけを取り出して、「これは潜水艦内部を表している」とか、「これはミサイルのことだ」などという解釈を唱える人がいますが、それは黙示録の読み方を知らないだけのことです。黙示文学というものは基本的に「象徴」であって、ある特定の事物を指すと言うよりは、それが示そうと意図している内容にこそ意味を見いだすべきものです。要するに、黙示録にはそれにふさわしい読み方がある、ということです。
そういうことを差し置いて、字面だけを見て都合の良いように聖書の言葉を切り貼りして持ってくる。それは、最もしてはならないことです。聖書自身が、「神が言ってもいないことを神が言ったとして語るなら、それは最も罪である」と証言しているのです。
そもそも、終末における神の裁きは、核ミサイルによってなされるものではありません。また人間の兵器とは何の関係も無い世界です。そのようなものとは根本的に違う次元の物事です。このことを弁えないと、黙示録は全く違う意味で理解されてしまうのです。そして、相手を非難しながら自分も同じ事をする、という矛盾に気がつかなくなるのです。これこそが、真の問題と言えましょう。
6.政教分離原則への違反
これは記事のなかでも記者が触れていることですが、アメリカの保守系キリスト者の一部には、この大切な原則に対する理解が弱すぎるように思います。私たち日本のキリスト者からすれば、政府が神道や仏教と深く結びついていた時代は、苦難の日々でした。ですから、政治が宗教と結びつくことの問題を、体験的に知っています。それゆえ、キリスト教が政府公認の宗教になることに対しても、私は断固たる反対を表明します。国家権力と結びついたキリスト教が、いかに堕落しやすく、信仰の内実を失わせ、形骸化した信仰へと導くものであるかは、教会史が証明しているからです。
宗教が国家と一体化したとき、何が起こるか。権力側は「聖典の権威」を自分の都合の良いように利用し、宗教者側は国家権力を笠に着て他者を弾圧する。これは宗教、国家、民族、歴史を超えた、普遍的な現象と言えます。そういうことは本来あってはならないのです。近代民主主義は、歴史からそういう教訓を学び取ったので、「政教分離」という重要な原則を打ち立てたのではなかったでしょうか。
もちろんこれは、宗教教育をするなとか、共産国家のように一切の宗教性を政府から除去せよ、という意味ではありません。そうではなく、ある宗教が他者を攻撃したり抑圧するために「利用」されるとすればそれは明らかに一線を越えている、という意味です。そして、今回のアメリカ軍の出来事は、まさしくそういう問題が表面化したものと思います。
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ざっと見ただけでも、今回の「聖戦論」には、これだけの問題があります。一般の人々の目でさえ「異様」に映る「アメリカの神学」。時に、日本のキリスト者は、理不尽な思いをしながら、周りの人々に対して彼らの「神学」の釈明をしなければならない立場に置かれることがあります。残念なことです。
そして、より残念なのは、こういう話を、穏やかにできるアメリカ人クリスチャンの方に、これまでほとんど出会ったことが無い、ということです。なぜか、感情のレベルで反応してしまい、冷静に議論できないことが多いのです。その反応は、一部の日本人が侵略戦争について感情的な態度を取るのと、実は同根ではないかと思います(注:「同一」と言っているのではありません。大元の動機の部分における同質性を指して「同根」と言っています。日本軍の行為を正当化するつもりは100%)ありません)。要するに「自己正当化」という罪に陥っているということです。問題の核心は、そこにこそあるのに、です。
もちろん、「アメリカ人」と一括りにすることは良くないと思います。今日の朝刊には、原爆投下機に乗り込んでいた乗組員のお孫さんが広島を訪問して心を痛めたという記事も載っていました。この件について、良心を持って対応してくれる人もいることにホッとする思いでした。
願わくば、すべてのキリスト者が、独善的にではなく、また選民思想に基づいてでもなく、真の意味で聖書を正しく理解できる知恵を持つことができますように。
そう祈らされた8月6日でした。
コメント
アメリカ東南部在住のクリスチャン女性(40代後半)です。日頃から、自分のバプテスト教会内でも、今回の福音派の保守派の一部のクリスチャンたちの、(単純に言ってしまうと)「アメリカこそが正しい、正義だ」といったような言動がある中で、自分の信仰が試されているように思いながら、教会生活を送っています。
そういった言動がある度、とてもきついです。ですが、そういう言動を取る人のことを、『個人として』見ないといけないと思い、彼らとのコミュニケーションを絶やさずに、特に共に働く場面で(言葉だけによらず作業、行いの中で知り得る面もあり、貴重なので)、多面的に知ろうとしています。
アメリカ人夫とは、こういったことについてよく話をすることが出来、彼も政教分離の考えを持っているので、お互い、教会の一部の人たちと相容れない考えを持つ中、葛藤しながら歩んでいます。ですが、彼がいつも言うように、例え意見が相容れない同士であっても、彼らと自分は普通に会話できるよ、それがアメリカだから・・というのが彼のスタンスです。確かに偏った感のある信仰姿勢の人を見た時、違和感を覚え、そのことに自分が圧倒されてしまいそうになっていることに気づくのですが、よく見渡すと、そういう姿勢も実は一部の人々のことであって(もちろん大きなグループとして発言権を持とうとすることもありますが)、中庸の人が居たり、リベラルな考えの人が居たり、という現実が落ち着けば見えることもあります。また、そういう異なる人々が異なったまま暮らしていけているところが、アメリカの良いところでもあるように思います。
また、やはり、一般的に人間と言うのは、自分の経験したことがその人の考え、感情に大きく影響を及ぼしてきていると思います。夫の昔属していた教会の中に、硫黄島に送られ帰還した退役軍人が居ましたが、その人がかの地で他の仲間と経験したことの詳細までは知りえませんが、その時の経験が、彼の現在の考えに大きく影響していると想像します。それは他の誰も変えることは出来ないものだと思います。彼らの戦争体験が及ぼした彼らの信仰というものもあるのかもしれません。
それに、ここアメリカ、特に南部は、北部との戦い(南北戦争)、それ以前とそれ以降の歴史(特に大戦)の中で形成されてきた聖書の信仰、教会生活がまだ根深くあるように思えます。そういったものは、簡単に変わるものではありません。(このことを肝に銘じないと、と自分に何度も言い聞かせてきています・・)自分としては、まだまだ十分学べてはいませんが、何かの折に自分の街や州、南部の歴史のことを少し知った際に、「こういうことが、この地域の人々のメンタリティーに影響を及ぼしたのかもしれない」というような発見があったりします。
そのように学ぼうとする姿勢がいつも保てるわけではなく、日常の中では、自分の弱さゆえ、極端な考えの集団が政治的に台頭してこようとする時、ゆとりを持って一人ひとりの個性を見ようとすることが難しくなります。が、そういう中、そういう時だからこそ、イエス様を見失わずにいたいと思っています。
本音としては、現大統領のことを、サンデー・スクール・クラスのティーチャーを務める人物が、悪魔呼ばわりをしたことなどがあったりして、恒常的に『しんどい』のが実情ですが、そういう人たちとも、兄弟姉妹として歩んでいくよう、この場におかれているのかなぁと思っています。それを言った人と以前話したとき、自分は歴史の事実をより客観的に知りたいし、学んだことを現在と未来に活かさないといけないと思っているという立場を崩さず伝えましたら、うなづいていました。そういう自分も、まだ学び足りてはいませんが、自分が知る限りにおいて、自国の犯した罪を罪として私が認識していることを話した際、その人物も、短い会話の中でしたが、原爆投下について私に謝ったことがとても印象的でした。
異なったものを持った人間同士の中、その多様性ゆえに難しくも感じることが多いですが、それでもイエス様だけを主と仰ぐことにおいて一致する兄弟姉妹として歩んでいけるよう、助けて下さい、というのが祈りの課題の一つでもあります。長くなってしまい、申し訳ありませんが、最後に、こういう人物もいる、こういう風に主は働かれるというのを知る意味で、次の青年の記事は興味深いかもしれません、ご参考までに。http://www.slate.com/blogs/thewrongstuff.html
はじめまして。
よく伺う水谷先生のブログで、こちらを知り、訪問させて頂きました。
丁寧に分析されていてとてもよく解りました。
ここら辺が上手く説明できると、伝道の際によく出くわす「じゃあ十字軍は?」「でもアメリカは原爆を落とした」の様な反撃の中でも福音を伝えられそうに思いました。
東京の羽村には4年間住んだ事があり、懐かしいです。
これからも時々立ち寄らせて下さい。
門谷先生の旧約聖書における、イスラエルの戦争の説明は、私もすべてその通りだと私も強く思います。そして黙示録についての説明は、一点だけ同意できないのは(といっても小さい部分においてですが)、「象徴」と言っても、やはり実体を伴っているからこその表現だ、という点です。ノアの時代の洪水の時の裁きが文字通り物理的な「水」であったように、使徒ペテロは次の裁きは「火」によるものであると言っています(2ペテロ3:6-7)。
それが核ミサイルだ、ということではありません。けれども、その可能性はないとも断言できません。むしろ、核ミサイルを人類が製造したというところに、私は主イエスの再来というキリスト者が抱かなければいけない「目を覚ましなさい」、つまり、キリスト者として慎み深く生きていく、という終末的時代性があると思います(1ペテロ4:7-8)。これを、神からの警告的徴候と受け取るのは、私は充分に霊的に有益であると思います。
それから、アメリカの保守派のクリスチャンについてですが、門谷先生は、普段からどれだけ実際の人々に触れているでしょうか?私は自分の属しているグループがそうなので、四六時中付き合っているのですが、それゆえに、簡単に「アメリカ人の保守派のクリスチャン」と括られてしまうと、私の心は多少なりとも痛みます。
インターネットの記事や、あるいは政治的論議になれば、それこそ自分自身の意見を表明するかもしれませんが、核武装を聖書で是認するような議論はこれまで20年近く付き合ってきた仲間の間ではほぼ皆無でした。たとえ政治的また軍事的に個人的見解としてそれを是認したとしても、(しかも是認したとしても消極的です)、それはあくまでも個人的見解であり、聖書的見解や信仰的信条として取り上げる人はごくまれです。
ましてや、イスラムのジハード論にある「積極的に核を用いることによって、メシヤの到来を早める」という考えは、強烈に反対する保守的キリスト者のほうが圧倒的に多いでしょう。たとえキリストの名を使っても、コーランを破る牧師が出てきたり、中絶する医師を殺したりする出来事が起こるたびに、激しい嫌悪感を示しています。
したがって私は、簡単に「アメリカ人の福音派クリスチャンは」と括ってしまうことに、私は反対に、日本の福音派の人々の間で、彼らに対する偏見が生まれているのではないかと危惧しています。特に指導者が発する言葉は大きな影響を及ぼします。
普段の彼らは、主イエス・キリストのすばらしさ、罪の力から自分を解放してくださった生ける神を強く信じて、その喜びであふれている姿で満ちています。政治や社会現象に対する見解は横に追いやられています。キリストの弟子たちの間には、ローマの犬であった取税人もいたし、ローマ打倒の武闘派であった熱心党員もいました。この一致を、私は国や民族や、政治的意見を超えて存在しているところに、キリストの福音の醍醐味があるのではないかと思っています。
そして、聖戦論を掲げるのが間違っているのと同じように(私も上に申しあげたとおり、門谷先生の聖書理解に95パーセント以上同意しています)、絶対的平和論を聖書からどこまで導き出すことができるでしょうか?(今、門谷先生がそのような意見の持ち主だ、ということではなく)私が申し上げたいのは、「私たちには、すべてを知り尽くすことはできない。」ということです。勧善懲悪は、聖戦論のみならず平和論にも同じように存在します。
戦争については、私の聖書理解では「戦争は起こるもの」という人間の現実、罪に起因する現実としては述べていますが、それを起こしてはならないという「べき」論としては述べられていない、というものです。主イエスは、戦争反対運動を起こされなかったし、ローマの兵士への信仰をほめましした。あらゆる人々にご自身の姿に触れてもらうべく、全ての人々に仕えておられました。むしろ、そのような分派、意見の対立とは無関係のところで、けれども、その間に振り回されながら(イエスご自身も、使徒たちも、パリサイ派、サドカイ派、ヘロデ党などの思惑の中で翻弄されました)、イエス・キリストの福音を伝え、また示したと思います。
それは聖書理解のみならず、私の実体験でもあります。いろいろな国に行って、住んで、やはり、「戦力はいけない」という考えは日本固有のものです。むしろ、軍隊と隣り合わせで生きており、それは生活の一部になっており、それを反対するという発想も起こっていません。(だからといって、それが正しいという判断も下していません。)
お隣の韓国は、男性がみな徴兵です。弾丸を込めるし、実射訓練も受けます。そして老年の方々は、朝鮮戦争を生き抜きました。その彼らに、「共産主義」と「自由」を同列に並べるようなことを話すものなら、顔を赤らめて怒られるだけでしょう。どれほど恐ろしい目に遭ったか、その実体験を持っているからです。
イラク戦争の性悪論も日本の福音派界でも盛んですが、戦争前の状態のほうが戦争による抑圧よりもひどかったことを、フセイン大統領の側近の一人であった福音派信者のジョージ・サダが述べています。
http://www.amazon.com/Saddams-Secrets-Georges-Hormuz-Sada/dp/1591454042
私は「イラク戦争」が正しかったと述べているのではありません。そうではなく、アメリカに存在する「聖戦論」また正戦論に焦点を合わせるうちに、実際に自国が戦場になった人々の声が聞けなくなってしまっているのではないか?という危惧です。
以上のことを申し上げましたが、それでも、日本国のみが戦争行為の中での被爆の体験をしています。そして、平和憲法も与えられています。その日本という国にいるからこそ発信できる、キリスト者から見た戦争というのもあります。こうした「自分を神はこの国に生まれさせてくださり、この国に生きているからこそ、発信できるものがあるのだ。」という慎み深さや謙虚さを持っているのであれば、実に有意義なことだと思います。そうすれば、日本国の慎ましい希望もあります。けれども、それをすべての戦争行為の事象に恣意的に当てはめるところに無理があるのでは・・・と思わざるを得ません。
私は広島に行ったことはありませんが、長崎には行った事があります。その本島市長はかつて広島に対して「広島よ、おごるなかれ」という題名の論文を出しました。
http://blog.goo.ne.jp/stanley10n/e/3c3acc9eea15dc73b331cd62a7c236ab
また被爆したカトリック信者永井隆は、敵であるアメリカに対して、徹底して「愛して、愛して、赦し抜け!」と攻撃的なまでに、赦しを説いています。
お互いに許し合おう…お互いに不完全な人間だからお互いに愛し合おう…お互いにさみしい人間だから
けんかにせよ、闘争にせよ、戦争にせよ、あとに残るのは後悔だけだ。 (「平和塔」より)
敵も愛しなさい。愛し愛し愛し抜いて、こちらを憎むすきがないほど愛しなさい。愛すれば愛される。
愛されたら、滅ぼされない。愛の世界には敵はない。敵がなければ戦争も起こらない。
(http://isidatami.sakura.ne.jp/heiwa3.html)
カトリック信仰に支えられた発言ではありますが、それでも私は、こちらのほうに日本の希望、キリストにある希望に近いものを感じます。
そして、国家と宗教の分離についてですが、私の知っているアメリカ人保守派クリスチャンは、門谷先生のご意見とまったく同じです。「キリスト教が政府公認の宗教になることに対しても、私は断固たる反対を表明します。」まさに、英国から逃げてきたのがその自由を得るためであり、その伝統を守りたいと願っているのが、アメリカ保守キリスト教の流れです。
私たちが辿ってきた国家神道の歴史については、完全に同意します。けれども、その目線でアメリカという国を見てしまえば、とまどうばかりです。米国にはこのキリスト教の流れがあると同時に、リベラリズムの流れがあります。これは自由主義というよりも、キリスト教への対抗、反キリスト教の色彩が強いです。
多くの欧州・北米からの宣教師は、「日本は自由があっていい。」と言います。例えば、カナダではラジオにてキリスト教の番組は禁止されています。なぜなら、「同性愛は罪である」という信条が、政治的公正から外れるからです!ですから米国には「文化戦争」というのが繰り広げられているのであって、唯一、ユダヤ・キリスト教の価値観を保持しているのが福音派の人々です。彼らが力を失えば、そうした反キリスト教的な制度や法律が次々とできてしまうのであり、それこそ、日本の国家神道によるキリスト者が受けた抑圧を彼らが受けてしまいます。
こうした全体的背景を見なければ、それこそ「公正」という神のご性質から外れてしまうのではないでしょうか?
以前にも、「オサマ・ビン・ラディンの殺害」について米国人が喜ぶ姿を批判されていましたが、在米日系のクリスチャンで、日頃はアメリカの好戦的な姿、自由を標榜する姿に非常に批判的な方でも、「意外に私の周りでは冷静であり、意見が二手に分かれた。そして遺族のことを思えば、やみくもに喜んでしまう姿を批判することはできない。」と吐露しておられました。
以上です、文章が長くなり失礼しました。