あの有名なマイケル・ジャクソン氏が、本日亡くなったというニュースを見ました。詳しい状況が分かってはいませんが、搬送された時には既に心停止状態であったとのこと。孤独な死であったとすれば本当に可哀想でなりません。心が痛みます。
私はマイケル・ジャクソンが有名であった頃はまだ小学生くらいであり、実は全く彼の音楽を聴いたことが無いので、歌手としての彼がどれほど偉大であったのかを語る資格はありませんが、近年メディアに彼の名が登場する時は、必ずと言って良いほど何らかの事件がらみであったことを思う時、彼の陥っている状況が目に浮かぶようで、いたたまれない思いになったことを思い起こします。
あまりにも有名になりすぎ、莫大な資産を得たがために、彼はかえって「神が与えたもので満足する」という、人間本来の自由を失ってしまいました。日本公演の際、後楽園遊園地を一人で借り切って遊んだこともあったと聞くと、なおさらその思いを強くします。
名声を得ながらも、人々の好奇の目線は日々彼を苦しめていたようです。黒人であった彼が、色素が抜ける病気故に白人のように白くなり、しかも幾多の整形を繰り返して現在にいたる迄の過程は、以下のHPで見ることができます。
マイケル・ジャクソンの成長の歴史がよくわかる写真いろいろ [Gigazine]
1970年代までの顔の輝きはどこにいってしまったのかと思わされます。私がこうした彼の姿を見ていて思うことは、「人間は、分を越えて有名になりすぎることには耐えられない、弱い生き物である」ということです。
そしてもう一つは、「富を得ることは、人間の自由を失うことに等しい」という真理です。人間は、持てば持つほどその欲にとらわれてがんじがらめになります。人間の欲には限りがないので、それは決して満たされることがありません。満たされることがなければ、人の心は必然的に病んでいくのです。だから聖書は「貪欲には細心の注意を払って、これを避けよ」と言います。これは、弱い私たちを守るために神の与えて下さった戒めです。
「そして人々に言われた。『どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。』」(ルカ12:15)
主イエスとその弟子たちは、枕する所も無い者たちでした。けれども彼らの歩みは、真の意味で世界を変えました。翻ってマイケル氏は、枕する所を10も20も持っていたことでしょう。けれども、その歩みは痛々しいものとなってしまいました。
私たちは「持つことの意味」を日々考えなければならない。
そう思わされた訃報でした。
コメント
イギリスでも昨夜から”Breaking News"としてBBCでもっぱらとりあげられています。ファンではない私には何でBreaking News??っていいう感じだけれど、欧米の人にとってはかなりの衝撃的な報道のようです。彼の孤独な人生、ステージでの華やかさとは裏腹の実際の彼の様子なんかも家族や友人たちがいろいろ語っていました。今日も一日彼のニュースでもちきりだよー。。
あれほどに裕福なひとでも最後は借金もあったようだし、、自分専用のテーマパークを建てたり、確かに富にもまれちゃった一面もあったみたい。そうだね、お金はひとを縛るものだよね、決して真に自由にはしてくれない。。エルビスに次ぐ歴史に残るミュージシャンって言われても最後はこんなにも突然であっけないなんて、、、
私にとっても考えさせられる知らせです。
仕事の合間に、息抜きでネットを見てました…
ぜんぜん、境遇は違いますが、少し前の三沢光晴選手の死もわたしにはかなりショックでした。高校生の頃はよくプロレスを見てましたので…
マイケル50歳 三沢選手46歳 若すぎる死ですが、残した実績という点で言えば、一般の人が一生かかってもできないことを彼らがしたことは確かであり、その意味では、彼らに与えられた生涯は全うしたのではないか…と思います。
40歳になった私にとって、あと何年奉仕できるかわからない、という緊張感をもって、悔いの無い奉仕をしなければ…と思わされました。