久しぶりの投稿になります。新聞を開けば、小沢氏関係の報道で紙面の大半が埋め尽くされ、見るところも無いような先頃になっています。この泥仕合振りは本当に、見る者をして「他にもっと大切な事があるだろうに・・」と思わずにはいられないものです。
そんな中で、興味深い記事を見ました。
「摘発基準を下げた検察に追従はメディアの自殺行為」[Blog vs. Media 時評]
私がいつも読んでいるブログ(元新聞記者の団藤氏が運営)ですが、特に目に止まったのは、「検察の摘発基準」なる概念を持ちだして、検察とメディアの姿勢を批判的に論評していることです。その論旨は以下のようになります。
1.従来の検察は国民誰が見ても巨悪と思う事件だけに強制捜査を行ってきた。
2.今回の小沢氏は、当時野党の立場にあった人間で、贈収賄事件にはなり得ない。
3.そのような状況で強引な捜査を行えば、検察は国民の信頼を失う可能性がある。
4.メディアは上記1~3にも関わらず、従来の「相場観」で報道している。
5.このような状況では、メディアは検察と「心中」することになるだけである。
1は要するに、検察は「起訴に値するかどうか」を判断する「相場観」を持っており、「摘発に値する腹黒さだ」と判断した場合にのみ起訴するのだ、というものです。これは、限られた人員(120名程度とのことです)で無数の捜査対象を扱わなければならない特捜部にとっては、当たり前なのかもしれません。上の記事で一番下の部分に、「数百万の収賄で特捜部が動くわけには行かない」と述べた検事の話が出てきますが、つまりはそういうことです。
そして団藤氏は2において小沢氏の事件を「相場観から見て低い事件」と見ているがゆえに、「このままでは従来の相場観が崩壊し、検察自ら首を絞めることになる」と考えているわけです。 私が「ん?」と思うのはこのところです。
そもそも、悪であればそれはどんな小さなものであっても明確にすべきであり、「相場観」という実体の無いものに照らし合わせて価値判断すべきものではないはずです。そのようなものは時代や人々の間の空気でいかようにも変わりうるものです。そして検察は、自らをそうした「相場観」で縛らなければならない義理も責任もないでしょう。ですから氏が「従来までの検察がこうだったから今のやり方はおかしい」と述べていることは論拠に乏しいと思います。
むしろ私は今回の事件は「検察がそうした『相場』を一気に下げるか、あるいは破壊しようと考えていることの現れではないか」と考えます。そして、もしそう言う意図を明確に持って検察が動いているとすれば、小沢氏の検察批判はむしろ逆効果なのかもしれません。実際、「政治資金報告書に億単位の金額を記入しなかった」という義務違反は、すでに当の本人も認めているからです。そこで「何で記載しなかったのか?」と考えた時に「何かやましいことがあったからではないか」と考えるのは検事でなくても自然な発想ですし、しかも、たとえやましいことなくても、ただ「忘れてました」では通るはずもないことです。
例えばスピード違反をしておいて、「ここ40キロ制限だよ」と警官から指摘されたとき「知りませんでした」で赦してもらえるでしょうか? そうはないことは庶民の私たちは痛いほど知らされています。問題は、果たすべき義務を果たさなかったということであり、しかもそれは億単位という巨額の金の支出もと・支出先を書かなかった、という問題なのです。決して「些細な問題」ではないでしょう。少なくとも我々庶民にとってはそうではありません。小沢氏や鳩山氏が、億単位の金の扱いを「書き忘れた」「知らなかった」と言っていることは、「私は自分の金もしっかりと管理できない人間であり、しかも公開せよと命じている法律も実践してきませんでした」と言ったに等しいのです。
私が今回の事件や鳩山総理の問題において最も気になるのは、「昔は~くらいで摘発されることはなかった」という言い方を、当事者達が繰り返していることです。このようなことを言うということ自体、コンプライアンス(法令遵守)の精神に欠ける、時代錯誤の弁明だと言うことです。昔の処理のされ方がどうであったかは問題ではありません。重要なのは、「今現在の法にてらしてどうなのか」ということです。現行法に違反していることが明白であれば、それが故意か過失かにかかわらず、法に服する。これが法治国家の原則です。他人がどういう扱いを受けたかは何の関係も無いのです。
国民が幻滅しているのは、このような「昔は~」で捜査を乗り越えようとする姿に、普段は「昔の自民党時代」を批判するくせに、いざとなると「昔」を持ち出す二重基準を見るからではないかと思います。
そのような姿勢ではなく、「私は法令遵守の姿勢にかけていました。申し訳ございませんでした。法の定める罰を受けます」と、一言でも言えば、印象は全く違ったものになるだろうにと思うと、残念でなりません。
「罪の軽重」を、「罪を犯した本人」が口にする光景は目にしたくないものです。ましてや一国の宰相、政権与党の責任者です。真摯な姿勢で謝罪すること。ぜひともそこに立ち返って欲しいと思います。
この国の政治が彼らの個人的問題にかまけていられる余裕は、もう殆どないのですから・・
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