今日は、広い視点を持つと言うことについて考えてみたいと思います。まずは格好の題材となるような記事を見つけましたので、お読み下さい。
「民主党チェンジ進んでいる」と書いた週刊朝日 [永田町異聞]
今のメディアは、どこを見ても政権批判ばかりで満ちていますが、この記事を読むと、「複数の視点を持つ」ということがいかに重要なことかを教えられるような気がするのです。「そうか、そういう見方もあるのだな」と。 「知らない」ということは恐ろしいものだとも思います。そのような無知なる者であるにもかかわらず、私たちはいかに簡単に、人の意見や印象に流されていることでしょうか。けれども私たちは、自分の価値判断、評価基準を「ただひとつのもの」に依拠してはならないと思います。「ある人がこういった」とか「あるテレビ番組でああ言っていた」ということを、そのまま自分の意見として採用してはならない、ということです。この世に流通している情報は、大なり小なりすべて何らかのバイアス(偏向)がかかっているものであることをわきまえ、必ず複数の人の意見を目にしてから決定を下すべきです。それが、この記事の教訓ではないでしょうか。
しかしながら、このような事を書くと、私は牧師として、ひとつの問いかけを受けることを避けられないと思います。それは、「牧師であるあなたは、聖書をただひとつの基準と考えているのではないか。それは狭い単一視点なのではないか?」というものです。
この問いついて、私は「ある面ではイエス、別の面ではノー」と答えたいと思います。
誤解を招くといけないので、これはどういう意味かを以下に説明します。
まず「イエス」の面としては、この世の価値観と聖書の価値観がバッティングするような場合には、いつでも聖書の権威の方を取る、という部分において成立します。これは信仰の土台であり、もしこれを受け入れることができないならば、そのような人は真の意味でのキリスト者とは認められないと思います。
次に「ノー」の面ですが、これは、人間は聖書をいつも100%正しく解釈できるとは限らないという現実によるものです。つまりは、聖書自体は無誤・無謬だが、それを理解する人間は不完全である、ということを認めるという意味です。ですから、ある人が「聖書にこう書いてある!だからこれは絶対に正しい!」などと声高に言うなら、そのような人を警戒すべきなのです。なぜなら、自分の限界を正しく理解していないからです。 そして付け加えるならば、聖書は人間を「脆く、はかなく、罪深さにまみれた土くれ」と描写しているにもかかわらず、それが自分には当てはまらないと考えていることになりますから、その人は聖書の主張を自分に当てはめて考えてはいない=聖書を本当の意味では信じていない、ということになるのです。そもそも、聖書の中にさえ、自分に語られたみことばを「本物かと吟味した」人々の姿が記録されています。
「ここ(ベレヤ)のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも良い人たちで、非常に熱心にみことばを聞き、はたしてそのとおりかどうかと毎日聖書を調べた。」(使徒17:11)
聖書記者はこのベレヤの人々を「良い人」と評価しています。そして私が理想とする信仰の姿勢も、このようなものです。信仰者とは、思考し、再吟味し、学び、教えられていくべき者です。「牧師がこう言ったから」とか、「先輩クリスチャンに指示されたから」という理由だけで行動するなら、それは思考停止です。「なぜそうなのか」を考え、自分なりにしっかりと納得して進まなければ、信仰者としての成長は望めないし、下手をすると思わぬ穴に落ち込むことになるかも知れません。もちろん、「思考しさえすればよい」という訳でもありません。牧師が言うことを鵜呑みにしないということは、裏を返せば、自分の考えをも鵜呑みにしない、ということでもあるからです。私たちは「人の言うことは非難するが、自分の主張は常に正しいと思い込んでいる類の人」になってもならないのです。
ではどうすればいいのか。 結局の所、行き着く先は「人間の弱さと、自分の限界を素直に認めてへりくだる」ということに尽きると思います。その上で、自分ではなく、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(IIコリント12:9)と呼びかけて下さる主に期待する。これが、キリスト者のあらゆる判断における鉄則ではないかと思います。
それでもなお道を誤ることもあるかもしれません。そういう場合でも、自分で考え、学び、祈って格闘した経験は、後のもっと大きな収穫のための肥料として用いられることになります。祈らず、考えず、学ばずに下した決断は、苦い根と痛みを永きにわたって残し続けることになります。それは私自身も何度も経験してきたことです。ただ同時に、それでも主は私を見放さず、見捨ない(ヘブル13:5)、ということに主の素晴らしさを見るわけです。
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信仰者は本来、誰よりも広い視野を持つことができる人のはずです。全知なる主の御言葉を頂いており、その主の霊を内側に頂いているからです。ですから当然クリスチャンとは謙ることのできる人、あるいは少なくともそうなりたいと日々願っている人のはずです。そうでないのなら、キリストの霊を本当に心に頂いているのか怪しい、と私は思います。
そういうわけで、広い視点を持つと言うことと謙遜であると言うことは切っても切れない関係にある。
これが今日の結論かと思います。
コメント
実は私がずっと関心を持って、もう少し勉強しようかな、と思っていることが、この記事と関係あります。
それは「前提」に関わることで、英語でpresuppositionといって、神学用語としても使われる言葉です。
私はこのpresuppositionという立場が正しいと思っているのだけれど、牧師にも、同神学校卒であっても、実質この立場に立つ人は非常に少ないと感じています。この考えは、文化をどうとらえるか、ということと関連します。
この数少ない立場をとる一人に、舟喜順一先生がおられましたが、先日召されましたね。神学舎の校長先生も、この立場におられると思いますが、神学校の中で、よく学ぶべきことがらだと思います。