もう大分前のことになりますが、NHKが素晴らしいことをやってくれていることが分かりました。
NHK 戦争証言アーカイブズ トライアルサイト
がそれです。このサイトでは、過去のNHKスペシャル「ドキュメント 太平洋戦争」の全編を無料で見ることができるほか、従軍兵士だった方々の、貴重な戦争体験も併せてみることができます。著作権のある映像作品が、全て無料で見ることができるという画期的なサイトです。10月12日までの期間限定ですので、この機会にぜひご覧になることをおすすめします。
特に、いままで太平洋戦争についてほとんど学んだことのない方には、「ドキュメント 太平洋戦争」を一通りみて頂ければ、あの戦争が何であったのか、良く分かるかと思います。日本という国が何百万もの国民のいのちを犠牲にして、たった一人の人間(あえて誰とは言いませんが)のために、どれだけ無謀な戦いに突き進んでいったのか。その過程が克明に分かるかと思います。
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さて、ここからは、なぜこの時期にこういうネタを書いたか、という理由です。先日の衆議院選挙の結果は衆知の通りですが、この選挙の行方について、あるクリスチャンの方が日記に記していた次のようなコメントが、非常に気になったのです。
「私は、日本の国益を考えてくれる人を選びたいと思う」
私はこれまで、クリスチャンの方の口から「国益」という言葉が出てくるのを、聞いたことがありません。国益ということばは、どちらかと言えば右翼気味の政治家の専売特許だと思っていました。それが、キリスト者の口から出てくるとは・・、と驚くと同時に、ある種の危機感を抱いたわけです。それは、
「国家が自国の国益をどこまでも追求するとどうなるか、分かっていないのではないか」
という危惧です。国益という言葉は、注意深く使わなければなりません。政治家が国益を叫ぶ時、そこにあるのは「一部政治家にとっての利益(=自分の利益)」であって、「国民全体の幸福」でないことが、ほとんどです。国益が「国民全体の利益」ならよいのですが、そういうことはまずなく、ほとんどは「国の権力者の利益」になっているのです。同じ「国益」でも、正反対な訳です。
実際、ある国が国益を追求する時、その背後には、他国の不利益がかならず生じるわけです。つまり、国益という言葉は、自分のエゴを通すための方便、として用いられているし、これまでもずっとそうであった、というのが歴史の教える所だということです。
このことは、日本という国が、太平洋戦争に突き進んでいった時、「国益」の名の下に国民やアジア全体を戦争に巻き込み、泥沼を経験したことからも分かることです。そしてこの場合の「国益」は「国体(=天皇)の利益」であることは、言うまでもありません。為政者は、国益という言葉を状況によって使い分け、国民をだましてきたのだということです。
そして、もし国益が「国民の利益」であったとしても、もし一国が国益をどこまでも主張しようとするなら、そこには必ず他国との軋轢や衝突が生じます。そして、そこに「力で解決すべきだ」という主張が生まれ、戦争へと発展していくのです。これは、歴史が教えていることです。
ここで、冒頭に戻るわけです。
日本はなぜ戦争をしたのか。あれだけの悲惨を、なぜ私たちの父母や祖父母達は、味わわなければならなかったのか。戦争の現実を知るならば、「国益を追求すべきだ」とうかつに言うことなど、できないはずです。なぜなら、あの時代は、国益を第一にする人々が人気を博し、人々はその熱に浮かされ、虚構の勝利に酔いしれた時代だったからです。
私たちキリスト者というのものは、自分の利益を第一に考えるような者であってはならないはずです。むしろ自分に死に、他者のために仕える、ということが聖書の神髄です。私たちは、たとえ世の中がどのような者であろうとも、自分はそのように生きる、と誓って信仰の道に入ったはずではないでしょうか。
自らを益することを捨て、他者を益することを、追い求めていきたいと思います。
コメント
今、職を失うなどして社会で追い込まれている人たちが、社会の一員としての承認を求めて、ナショナリズムに傾いて行くとも言われています。将来に希望を失った人々が、戦争を待望することもあり得ると言います。
キリスト者として、今の社会状況、格差の問題にどのように関わりを持っていくのかも、考えて行くべきだと思わされています。民主・社民の中道左派政権が誕生したのは歓迎したいところです。
牧師としての歴史認識も大切ですね。私は不勉強なので、もっと学びたいと思います。