裁判員制度について思うこと

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今日は、先週ニュースの中心をさらった「裁判員制度」について書いてみたいと思います。

新聞報道やネット上の論調を見ると、裁判員制度を積極的に支持する派と、懸念を表明する派とに、かなりクリアに分かれているように見えます。私自身は前者の「支持派」に属します。元々私は、日本の司法制度は余りにも市民感覚からかけ離れた判決が多すぎるように感じてきました。とりわけ、起訴されたら有罪率99%という司法制度の異常さや、違憲訴訟において数多く見られる法理のみを前面に出した、一般市民から見ると理由になっていない理由での「門前払い」など、目に余る部分が多くありました。

それだけではありません。本来警察権のみを行使する警察署内の留置場が、警察権とは独立しているはずの司法権を行使する裁判所の留置場も兼ねている(代用監獄)という異常性もあります。この結果、どれだけ多くの冤罪が生まれ、中には死刑執行されたかもしれない人もいるかと思うと、それだけで心が痛みます。

裁判員制度は、こういう硬直した日本の司法制度に、風穴を開ける第一歩となるという点で、私にとっては評価こそすれど、否定するという発想は全くありません。もちろん、こまごまとした制度の不備はあるでしょう。これについては「やってみて改善すべき所はよりよい方向にしていけばよい」だけの話です。新制度そのものを否定するのは極論だと思うのです。

それでも、良く目にするような、裁判員制度に対する批判もあります。代表的なものは以下でしょう。

1.憲法で定められた公平な裁判を受ける権利を侵害する

この考え方の背後にあるのは「素人の市民は印象や感情で流されて客観的な判断ができなくなる。つまり被告にとって不利になる」というものです。果たしてそうでしょうか。わたしの見る所、職業裁判官は余りにも「仕事」としての裁判になれすぎてしまって、逆に市民が当然感じるような感情を殺してしまっているのではないか、と感じるのです。これがしばしば、これまでの裁判で市民感覚からかけ離れた判決が出る主な理由だと思います。「経験がある」ということは、時に「縛られる」ということとイコールにもなり得るのです。プロの裁判官はフェアだが、市民はアンフェアだ、という見方は一面的な見方に思えます。

しかも、裁判員だけで決めるのならともかく、プロの裁判官も加わって何時間も評議するのです。印象や感情に強く影響された判決が出る可能性は、極めて低いと言えます。むしろ、これまで余りにも市民感覚から乖離していた部分が「是正」されたと考える方が、私には妥当に思えます。

2.プレゼンテーションの能力が判決を大きく左右する可能性がある

裁判員制度が導入された裁判で最も変わったことは、「分かりやすくなった」ということです。大型モニターに証拠写真や、人間関係図などが投影され、いままでは検察官も弁護士も書類を棒読みだった状態からは大きく様変わりしたそうです。そして、この変化に検察側は組織をあげて分かりやすいプレゼンテーションを作成したが、弁護側は物足りないものだった、だから検察有利になりうるので良くない、というのがこの批判です。

私はこの批判は的外れだと思います。もしプレゼン能力がそれほど判決を左右すると思うのであれば、プレゼン能力を鍛えればよいことです。何も大組織だからプレゼンが旨いという訳ではありません。個人でも素晴らしい仕事はできます。要は、弁護士に学ぶ意欲があるかどうかなのです。これからの弁護士は、プレゼンスキルを磨かなければならない。そういう時代になった、ということだと思います。難しい法律用語を駆使すれば検察と互角に渡り合えるが、分かりやすいプレゼンの場合は太刀打ちできない、というのは明らかにおかしな主張です。本来なら逆ではないでしょうか?

3.裁判員にとっては被害者の写真などを見せられることは精神的苦痛である

これは当然そうでしょう。おぞましい犯罪の現実を見ることは、誰であっても避けたいことです。けれども覚えておかなければならないのは、それが私たちの住む社会で現実に起こっていることであるということです。私たちはそれを直視していかなければならないのではないでしょうか。直視するからこそ、命の尊さや人間の罪の底知れぬ根深さ、憎しみや怒りにとらわれた人間の姿などに気づかされ、人生についてもっと深い洞察ができるようになると思うのです。

「精神的苦痛」を理由に直視することを避ける人は、戦争映画や、戦争の写真を見るのを嫌う人と似ています。「残酷だから」「正視できないから」。確かにそうでしょう。私も小学生の時に行った原爆資料館の写真は、決して忘れられません。けれども、それが人間のしてきたことなのです。戦争について学ばない者は、必ず戦争を起こすのです。それが人類始まって以来の歴史が語っていることではないでしょうか。ですから、犯罪の現実、人間の罪の現実を直視しない社会もまた、同じように犯罪のはびこる社会になるでしょう。

そもそも、自分は見たくないからプロの裁判官に任せるという態度は人任せであり、責任ある社会人の態度とは言えないのではないでしょうか。プロの裁判官なら、感覚が麻痺しているだろうから大丈夫だとでも言いたいのでしょうか。それはおかしな論理ではないかと思うのです。

・・というわけで、私は、問題はもちろんこれから大なり小なり出てくるでしょうが、それでも裁判員制度を支持したいと思います。長い目で見れば、必ず日本の将来にとっては良い影響を与えると信じています。

とかく日本人は「常識」だとか「空気」といった実態のないものにあまりにも流されすぎるきらいがあるように思います。「お上」に任せて自分は責任は果たしたくないというあり方では、社会が良くなるはずもありません。

裁判員制度を通して、少しでも自分は社会の一員なのだという自覚が芽生えていくのなら、それだけでも十分に意義あることだと、私は思います。

コメント

  1. シンゴママ より:

    そうだね。僕も賛成派。素人を裁判の席に連れてくるなんて、というけれどそもそも被害者や遺族だって素人。
    同じ心情に近い人が裁判官をやったほうがいいと思うよ。