先ほどのことですが、面白い記事を発見したので紹介したいと思います。
「きわめて短時間にそこそこの成果を上げる人間」の取説とその弱点 [はてな]
読んでいて、8割くらいは「これは私のことだ」と思いました。かな~り、これまでの私の生き方に当てはまっているように思います。私は他の方の目にどう映るかは分かりませんが、ともかくスロースターターで、腰が重い人間です。〆切り直前にならないと、力がでないのです。反対に、一度エンジンがかかると爆発的にアイディアが湧いてきて、一気に仕事を進めることができるのです。で、結果的には「そこそこ」のものができあがるのです(ここで重要なのは結果が「そこそこ」であって「最高」ではないことです)。立場上、他の人はそれを見て評価して下さることもあります。しかし自分自身では、その裏にある「危うさ」というか、「やっつけ仕事的な感覚」(なにぜ、実際かけた時間は短いのですから)に、多少なりとも引け目を感じていることが多いのも事実です。そして、底の浅さが露呈するのではないかと不安がよぎることも、無いとは言えません。
どうしてだろう、とずっと考えてきました。そういうやり方では、息の長い、持続的な成長はできない。そう思って「これではいけない」と思っていたこともあります。そういう問題意識が、この記事を読んで言い当てられたような気がします。
ただ、結語としてあるところの「そうしてたくさんの世界に足跡を残しながらも、本人は永遠に『これでいい』と満足することなく、いつのまにか消えていくのである。」というくだりは、かならずしも当てはまらない面があります。
なぜなら、キリストを知っているからです。帰るべき所があり、自分の存在の根源であるお方に知られており、そして行くべき所が既に与えられている。この違いは、天と地ほどのものがあります。逆に言えば、神を知らないで、このような生き方をしなければならない人は、本当に可哀想だと思います。それこそ、この結語のように「永遠に満足を得られない」で生きるのですから。これでは人生は苦痛でしかないでしょう。
ただ私は、この記事のような生き方をする人は、信仰という面でも吸収力が高く、短期間で成長するタイプの人だという点で、大きな可能性が与えられている人だとも思います。そして、こういう人こそ、福音が必要なのではないかと思うのです。「永遠に満足できない人」が、「永遠の安息を頂いた人」に変えられる。それは、素晴らしい事です。私もそういう出会いをして生涯が変えられる経験をした者として、しみじみ思うのです。
この記事ではまた、こういうタイプの人の弱点を「いつも上澄みをすくっていき、分かったように物事を語りやすいと見られやすい」という指摘も行っています。これなど、反省する所しきりです。
最後にそれでも思うことは、「こういう欠けだらけの私でも赦されている。愛されている。御言葉を託されている。」ということの計り知れない恵みです。そして、折に触れて色々な手段を通して自分に気づかせて下さる神様の巧みな御業。
信仰者として生きることの醍醐味を改めて感じました。
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