続・ヤスクニ

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「靖国参拝は首相の責務」と自民・安倍氏 [asahi.com] この方は以前から「超保守」というイメージがありました。靖国問題に関しては特に露骨な主張が目立ちます。リンク先のasahi.comの記事によれば「小泉首相がわが国のために命をささげた人たちのため、尊崇の念を表すために靖国神社をお参りするのは当然で、責務であると思う。次の首相も、その次の首相も、お参りに行っていただきたいと思う」という発言をされたようです。ついに「責務」ということばまで持ち出すとは、あきれてしまいます。責務というのは、「『しない』という選択の余地はない」ということです。
一見すると、「国のために命をささげた人に尊崇の念を示す」ことは、良いことのように思えます。少なくとも、悪い響きはしません。しかし、日本の場合、それは「日本が行った戦争に国際社会の認める大義名分があった」ということが大前提ですが、それが無いことは明らかです。道義のない戦争を行い、それに駆り出されるを良しとし命をささげたとしても、それは「尊崇」すべきことではなく、それどころか犯罪行為への荷担でさえあります。 この辺を「命をささげる」ということばを使って、いかにも美しい行いをしたかのように見せかけるのが、安部氏らヤスクニ万歳な方々の手口です。「あの戦争は欧米列強にハめられて追い込まれた日本が、止むにやまれぬ思い(断腸の思い)から行った正義の戦争だった」というのは、靖国神社に併設されている戦史博物館「遊就館」の一貫した論調です。彼らにとっては「何の意味があって命をささげたか」は問題ではなく、「何に対して命をささげたか」が重要なのです。命をささげた相手が「日本」であれば動機は問わないという、非常に屈折した死生観があります。いのちよりも、国家が上に来ているのです。
さらに、安部氏の言説の致命的な誤りは、「国のために命をささげた方に尊崇の念を表す」ことから「靖国に参拝する」という論理的帰結を導く根拠は全くない、ということです。安部氏らは、「現に戦死者の遺骨が祀られているではないか」と言うかもしれませんが、そもそも、そんなに大勢の遺骨が、一宗教団体によって握られていると言うこと自体、「異常」なことであり、戦中の日本がいかにおかしな状態だったかを物語る証拠ではないでしょうか。私たち自身を見ても、葬られ方は多種多様です。仏教式もあればキリスト教式もある。墓地は様々な場所にあるし、葬り先を決める自由が、一般市民には与えられているのです。それが、数百万人分もの遺骨が、靖国神社一社にあるのです。人々をして、靖国に祀られたいと思わせるような、国家規模の思想統制やマインドコントロールがあったことは疑いのないことです。あの戦争は、そのような汚い、醜い、苦悩と悲しみと痛みに満ちた、異常な時代だったのです。
こういったことを差し置いて「結果が何であれ国のために命をささげることは美しい」と思わせ、しかも死人に口なしをいいことに、「戦死者は喜んでいる」などと平気で言ったりするとは、作為的悪意があるとさえ思ってしまいます。
そもそもヤスクニである必然性は完璧にゼロなのです。死者への敬意の表明は、国民誰もが納得できる形を取らなければなりません。靖国神社は軍国主義の遺物を余りにも色濃く残すなど多くの問題をはらみ、また周辺国の苦難の記憶を呼び覚まし、先人達の平和への努力を水泡に帰してしまいます。「首相の責務」などとんでもないことです。このようなことを言う人物が政権の中枢にいること自体、今の日本の「おかしさ」の象徴でしょう。
しかし、私たちキリスト者は、彼のような人のためにこそ、祈らなければならないのでしょう。パウロがローマ13章の冒頭で念頭に置いているのは、靖国神社に参拝する程度の人ではなく、キリスト者を迫害して虐殺するようなローマ皇帝なのですから・・。
主にあって。