このところ、政治ネタが多くなっていますが、今日はある神学者の記事をもとに、考えてみたいことがあります。 以下の記事は、アメリカの著名な組織神学者の Wayne Grudem 氏が、ある裁判についての感想を CNNに投稿したものです。 福音派の神学者が CNN のような左派系のメディアに登場することは珍しいと思われますので、英語ができるかたはぜひお読み下さったらと思います。
まず裁判の要点について記すならば、イラク戦争において戦死した兵士の葬儀に Phelpsという牧師が、「神はあなたがたを忌み嫌っている」とか「戦死した兵士のことを神に感謝するがよい」と書かれたプラカードを掲げて出席したことで、多大な精神的苦痛を受けたとして兵士の父親が訴えた、ということだそうです。 この裁判は最高裁まで争われ、現在係争中とのことです。
Grudem 氏はこの問題について、以下のような三つの見解を示しています。
まず第一は、「聖書は、『自分にしてもらいたいことは、他の人にもそのようにしなさい』と語る。 Phelps 師は、自分の息子の葬儀にも抗議のプラカードをみたいと思うのか。ノーだろう。彼のしていることは、イエスの教えに抵触しているのだ」。というもの。 この点については、私も基本的に賛成します。 たとえどのような人物であれ、葬儀という場は尊厳が保たれるべき場所であり、政治的主張が行われるような場所であってはなりません。
続いて、とりあえず第二の見解を最後に回し、第三の見解について見てみましょう。 それは、「いくら精神的苦痛を受けたといっても、そのことに何百万ドルもの賠償を請求するのはいかがなものか。 また、抗議は300メートル離れたところで行われた。 そのような所からの主張を、『いやな思いをした』というだけで訴えるというのなら、誰でも同じようなことができる先例を作り、言論の自由を妨げる恐れがある」というものです。 ここにいたって読者は初めて、Phelps師の抗議がそれほど遠くから行われたことを知らされるわけです。 こうなるとだいぶ事情は違ってきますね。 「葬儀の尊厳」と「言論の自由」。 両者はバランスよく考えられなければならないでしょう。 Grudem氏が、言論の自由について懸念を示していることは、大変適切であると思います。
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さて、ここまでは良いのです。 これで終わっていれば、私も全面賛成でした。 けれども、氏の第二の見解について、私は非常な違和感を持ちました。 重要な事を言っているので、全文を訳しましょう。(注:太字は筆者による)
合衆国の兵士がイラクやアフガニスタンでの戦争で戦死するとき、それは、フェルプス牧師が主張するような、神の裁きのしるしなのだろうか? 私はそうは思わない。 これらの戦争は、我が国をテロリズムから守るための戦いであり、そのような戦争は、「正義の戦争」なのだ。 それゆえ、これらの戦争において我が国を守るために戦っている兵士たちは、使徒パウロが言うところの「あなたに益を与えるための、神のしもべ」(ローマ13:4)である。 それゆえフレッド・フェルプス師は全く誤っている。 聖書はマシュー・シュナイダー氏(注:戦死した兵士)のことを、私たちに益を与えるための「神のしもべ」と見ており、そのような正しい動機において起こった彼の死は、彼が仕えた国に対する偉大な愛を示すものだ。 イエスは次のように述べている。 「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません。」(ヨハネ15:13)。 クリスチャンたちは、マシュー・シュナイダー氏の死を悼み、軍における彼の忠誠を賞賛すべきである。 フレッド・フェルプス師の非難される抗議のように、その死をいい気味だなどと言ってはならないのだ。
ここにあるのは、実はアメリカの福音的キリスト教指導者のなかに、かなり広く見られる一般的な見解と言うことができるのではないでしょうか。 しかし私は、以下の点からこの見解に疑問を感じます。
1.イラクやアフガニスタンの戦いがなぜ正義の戦争なのか、その理由を明示していない
もちろん Grudem 氏は全く語っていないというわけではなく、「国をテロリズムから守る戦いだから」と、一応の理由を挙げています。 しかしそれは、ブッシュ大統領がイラク戦争を始めたのと同じ理屈であり、今や殆ど根拠を失っている主張です。 「テロとの戦い」=「正義の戦争」ととらえる向きは、アメリカを一歩出れば、支持を失う考え方でしょう。 そして、この視点には、「なぜテロが起こるのか」という根本的な点に対する洞察が欠けているようにも思います。 なぜ自分たちは憎まれるのか。 それは、自分たちの中にも問題があるからではないか。 そういう内省が、なかなか出てこないのが残念なところです。
2.そもそも「正義の戦争(just war)」なる概念が聖書の中にあるのか、根拠に乏しい
これは、私の問題意識の中にずっとあることです。 果たして聖書は「正義の戦争」と「悪の戦争」を区別しているのでしょうか。 そのような単純な二元論的戦争理解を、聖書は提示しているのでしょうか。 大いに疑問を感じます。 おそらく、このような「正義の戦争」という主張が出てくる根拠は、旧約聖書のイスラエル民族によるカナン占領の記事にあることでしょう(新約聖書において根拠になりそうな箇所は、氏も引用しているローマ13章くらいです)。 神の民であるイスラエルが、偶像礼拝に染まったカナンの民を征服していく。 悪を駆逐する戦い。 そういう聖書理解です。 果たしてこれは聖書的な理解でしょうか? 私はそうは思いません。 それは以下の理由からです。
(1) イスラエルの民の行動を、現代の戦争と同列に捉えるべきではない
戦争というのは、互いの主張が正面から対立し、互いに一歩も譲らず、あらゆる外交的解決が不可能な見通しとなったときに、実力行使を持って相手に強制的に自分の意志を受け入れさせる一連の行動、と言えるでしょう。 互いに自分の側に「正義がある」と考えるから衝突が起こるのです。この「~と考える」という部分がポイントです。 それは相対的な正義であって、絶対的な正義によるものではない、ということです。 人間の戦争というものは、常にこの「相対的な正義」に基づくものです。 それは、太平洋戦争の戦勝国アメリカが非人道的な原爆を二発も落とし、それを正当化する事から見ても明らかです(もちろん我が日本も程度の差こそあれ似たような事例を持っています。だから相対的な正義、なのです)。
聖書の記事は、そういう観点から見るべきものではありません。 それは、人間の正義を超えた、神の正義によってもたらされたものです。 そう言える根拠は、その方法からして、人間の戦争の常識とは相容れない方法が用いられたことからも明かです。 たとえばエリコの占領が良い例です。 神の箱を先頭にラッパを吹きながら毎日一回、七日間町の周りをただ回るだけ、というその方法は、およそ「いかにして勝利を得るか」だけを考える戦術家の発想とは対極にあります。 神は、何のためにそうしたか。 それは、「この戦いは人間の戦いではない、主の戦いである」ということを明確にするためでした。 神が直接介入している、歴史上例のない戦いであり、後にも先にも、こういうことは無い。 そういう戦いの事例が聖書に記されているのだ、ということです。
ですから、そのような戦いと、イラクやアフガニスタンにおける、自国の都合を優先して相手を一方的に「悪」と断罪するような戦争とを同列に論じることは、聖書に対する冒涜とさえ言えると思います。 そして頼まれてもいないのに自ら「正義の代理人」を買って出ているという点でも、さらに問題です。
ですから私は言いたいのです。 聖書をより所として戦争の大義を論証することは決してできないし、そのようなことをしてはならない、と。 聖書はそのような適用をすべき書物ではありません。 さばくのは神です。 復讐は神のすることであり、人間の領域においてなされるものではないのです。 この点において、「正義の戦争」というロジックには、致命的な欠陥があると言えましょう。
(2) その聖句引用において、致命的な釈義的誤りを犯している。
Grudem 氏のような著名な聖書学者には信じがたいことですが、氏が上記の引用文で参照しているローマ13章もヨハネ15章も、原文の文脈からは離れたところでなされている参照だと言わざるを得ないと思います。 ローマ13:4 で想定されているのは、キリスト者が、不信者でかつ軍備を持った為政者に対してどのような態度でいるべきか、という心構えを述べたものです。 間違っても、今回想定されているような、「イラク戦争に従軍することが良いことなのだ」という主張をするための手がかりとしての意味は、与えていません。 ヨハネ15:13もしかりです。 この箇所のどこに、「相手を殺し合う戦争の場」が想定されているでしょうか? ここで想定されているのは、「自分が命を捨てなければ、自分の隣人が死ぬ」というような状況です。たとえば、ナチスの強制収容所で、処刑されるために選ばれた男の代わりに自分が死にますと申し出た、マキシミリアノ・コルベ神父のような人。 そして究極的には、人類の罪のために十字架を負って死なれたイエス・キリスト。 そういう人が想定されているのではないでしょうか。
そもそも今のアメリカで、イラクで兵士が戦死しなければ、たちどころにアメリカ国民が危険にさらされる、というような状況があるでしょうか? 全く違いますね。 前提がことなる聖句を、自分の主張を正当化するために利用すべきではありません。 聖書はむしろ、こう教えているのです。 「悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい」(マタイ5:39)。
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いろいろ書いてきましたが、長くなりすぎるのでこのあたりでやめたいと思います。
おそらく、私のような主張は、アメリカ国内では「異端児」として扱われるでしょう。 それほどに、「正義の戦争がある」という理解は、アメリカのキリスト者の中に根付いているように思います。 しかし、それが本当に聖書の言っていることなのか、ということは、検証されていかなければなりません。 聖書から離れた思想が源流にあるにもかかわらず、さもそれが「聖書はこう言っている」かのように語られるならば、それはあってはならないことです。 そして、そのような意見が、指導的立場にある神学者の口から出てくることは、とても残念なことです。
一朝一夕で、この状況が変わるのは難しいでしょう。 英国国教会の弾圧を逃れて「新天地」を求めて当てのない旅を始めたピューリタンたちが、今のアメリカの源流です。 彼らは、独立前夜には、自分たちの信仰を守り通すための戦いを強いられました。 ですから、自分たちのことを信仰の擁護者、神の正義の使者、と考える傾向があることは、ある意味当然のことでしょう。 そして時にそれは、感情的なレベルで「絶対正しい」とまで考えられていることもあるようです。 私がある方から耳にしたのは、「アメリカからの宣教師と、9・11の話をしようとしても、冷静に話すことができない」という嘆きでした。 残念なことです。
けれども、重要な事は、聖書がなんと言っているか、いつでもそこに立ち返る勇気を持つことです。 たとえどれほど後生大事に抱えてきた信念であったとしても、聖書の裏付けがないならば、それは無意味です。 アメリカという国の神学が直面しなければならないことも、まさにその部分でしょう。
全部が全部、そうだとは思いません。 国を憂え、「平和の福音」の原点を追求している神学者もいます。 願わくば、「正義の戦争」という概念についても、自由闊達な議論がなされ、聖書に基づいた理解がなされていくことを願ってやみません。
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