続・尖閣諸島問題に思うこと

この記事は約5分で読めます。

9/28に「尖閣諸島問題を考える」と題してポストした記事は、毎日千単位のアクセスを誇る「小さないのちを守る会」の水谷先生のブログからリンクされたこともあり、当ブログ始まって以来の数百単位のアクセスがありました。 改めて、先生のブログの影響力の大きさを感じると同時に、この問題について、クリスチャン界でも関心が深いことを思い知った次第です。

そしてそれは、コメント欄においてなされた議論からも感じたことですが、残念ながら、その議論は「全くかみ合わなかった」という印象を抱いています。なぜかみ合わなかったのか。理由として四つの点があったと考えています。

(1) 国家と神の国のどちらを優先するか、という信仰上の優先順位の問題
(2) 信仰と生活の一致というキリスト者の内的一致の重要性における問題
(3) 歴史認識をめぐる問題
(4) 今回の問題にどう対処すべきかという具体的政策の面での問題

該当のコメント欄には、二人の方が、それぞれ丁寧にご自分の意見を書き込んで下さいました。 感謝するばかりです。 幸いなことにお二人ともクリスチャンでした。 そこで私は当初、クリスチャンであれば少なくとも、(1) および (2) の領域においては一致できるものと考えていました。ところが、最初に書き込んで下さった方は、クリスチャンでありながら靖国神社崇敬奉祝委員をしておられるという方であることが分かりました。 その意味するところは、上記の四点のすべての領域において私とは全く違う前提に立っている、ということです。 当然、議論はすれ違ってしまいました。 しかし、このことについてはまたいずれ書くことにしたいと思います。

さて、次に書き込んで下さった方は (1)、(2)、(3)については一致していました。ところが (4) の部分においては、考えていることが異なっていることが分かりました。 その方は、「尖閣諸島が日本の領土だということは、粛々と主張すべき」と考えておられました。 私はこの「粛々と」というフレーズに、当初同じように声高に主張しながら結局、方針転換せざるを得なかった今の政府と同じ発想を感じたので、その点につき「お互いが自分の主張ばかり言い合って、それで問題は解決するのか。問題を具体的に解決する方策はあるのか」という問いかけをさせて頂きました。私には、「粛々と」とか「正義は主張すべきだ」という意見は、現実から遊離した理想論にしか思えなかったからです。

そのようなことを考えていたところ、今日になって、評論家の大前研一氏が以下のような記事を書いておられるのを発見しました。

「尖閣問題」の歴史を知らない民主党の罪 [nikkei BPnet]

長文の記事ですが、非常に読み応えのある記事ですので、まずはご一読頂きたいと思います。私は普段、大前氏の主張には、全面的に賛同することはできないものも多く感じているのですが、尖閣諸島問題を巡るこの氏の主張には、多くの点で賛同したいと思います。それは、以下の理由からです。

(1) 尖閣諸島の領有を巡る正確な時系列データを提供している

冒頭に記載されている歴史年表を、国民の大多数は見たことがないのではないかと思います。かくいう私も初めて知ったこともありました。これまでの尖閣諸島の歴史が、簡略にしかし要点を押さえて書かれています。これを読むと、日本の主張にもかなり危うい部分があるし、一方で、中国の主張も全く荒唐無稽のでっち上ではなく根拠らしきものはある、ということがよく分かるのではないかと思います。 私は常々、議論というものは正確なデータを知ったうえで行うべきだと考えています。その点において、大前氏がこのようなわかりやすい年表をまとめて下さったことは、私たちが尖閣諸島問題をどう捉えるか、という点において助けになることでしょう。

(2) 対立する相手との外交における裏表の正しい使い分けを指南している

大前氏は、歴代の自民党政権が心得ていた、「対立する相手に対して、自らの主張は持っていながらもそれを声高に主張せず、政治的配慮と外交チャンネルを使って解決する」というやり方を、ある意味で評価しています。 私もこの点については同意見です。 なぜなら、外交というのは「面子のぶつかり合い」だからです。 双方が無数の国民の声を背負って対峙しているのですから、「自己主張」だけで解決するのははじめから夢物語に近いでしょう。それは、聖書が繰り返し示している、人間の「自己中心」や「外側を気にする」というリアルな罪の現実を冷静に受け止める、ということでもあるかと思います。

そこで現実的な落としどころが必要になります。 双方の面子がそこそこ立つ所。 はじめからその着地点を見据えていなければ、今回の民主党のような稚拙なやり方になってしまうのです。 国内政治における「ウラ・オモテ」は見たくありませんが、外交の現場には違います。 同盟国ならいざ知らず、中国のような国に対峙するには、それにふさわしい方策がある、ということです。 大前氏の論は、その本質を突いています。私は、氏の論の持つそのような「現実性」の故に、今回賛意を表したいのです

・・・・

ところで、上の二点の理由を書きながら思った事があります。 それは、「これこそ、イエス様が『蛇のようにさとく、鳩のように素直であれ』と言ったことの意味なのではないか?」ということです。

そこで今回の場合の「鳩のような素直さ」とは、「(1)にあるような歴史的事実を正直に見つめること。もしその事実が自国に不利なものを含んでいたとしても、それを認める勇気を持つこと」ではないでしょうか。 不利な情報は知らせず、自分に有利な情報ばかりを流す。 どこの国でもやりがちなこと
です。 中国はそのやり方が極端というだけであって、「我が日本はフェアな国だ!」などと考えるのは幻想に過ぎません。 私はこのブログでも過去に、偏向のないメディアなどというものはあり得ない、という趣旨のことを主張してきました。 その思いは今も変わっていません。

さて、「蛇のような賢さ」とは何でしょうか。それこそ、(2) のことであって、鋭く主張がぶつかる場面での外交には、現実的な知恵が必要だということです。 私は、「本音と建て前を使い分ける」ということは、個人の信仰生活においてはあるべからざること、と考えていますが、主張がぶつかり合う外交の場だけは別です。 「対立する相手との外交は、時に本音と建て前を使い分ける必要がある唯一の場だ」とさえ思うのです。 それは、「罪」ではなく、むしろ、「蛇のような賢さ」だと私は思っているのです。

今回のような問題を解決するためには、どうしてもこの二点が必要ではないかと思います。 このことを考えないで、「粛々と主張せよ」と言うのは、説得力を欠いていますし、なによりも問題を硬直化させるだけに終わるのではないでしょうか。

願わくばキリスト者こそ、今回のような問題において、バランスのとれた考え方を持ちたいものです

コメント