現代は「疲労の時代」と言ってよいほど、人々が疲労感に悩まされている時代ではないかと思います。かくいう私も例外ではありません。夜、首回りが痛くなり、翌日偏頭痛を感じることが、月2~3回はあるようになってきました。
そんな中で、なかなか考えさせられる良い記事に出会いました。
現代人を蝕むハイテク中毒やハイテク疲れの問題点と解決方法 : ライフハッカー[日本版]
活版印刷の発明以来、人類はふけ続ける「情報」の波のなかで、本来のあるべき姿を見失い、それが「疲れ」になっている、という指摘です。確かにそうではないでしょうか。インターネットの普及によって、自宅で収集できない情報はほとんどない、という時代になりました。以前なら図書館に通い、朝から晩までかかって調べ上げた内容が、現代であれば、1時間で入手できる。そういう変化を、私たち30代は一番感じている世代ではないかと思います。
しかし、そのようにして情報を簡単に入手できるようになったのはいいが、本来必要とはしていなかったはずの余分な情報まで入ってくるようになり、今や、その処理に忙殺されるようになってきている。そういう指摘が、上記の記事で話されています。これもまた、頷かされる指摘ではないでしょうか。
携帯電話によって変化したコミュニケーションについても、記者はこう指摘しています。
「四六時中すべてのメールに即レスする必要はないはずなのに、メールにはできるだけ早く返信するのが大人のマナー、というような新しいエチケットが生まれています。リアルの世界の優先順位を無視して、デジタルの方を優先しようとすると、問題が悪化していくのです。」
特に最後の文章に注目してみましょう。これは、私たちが普段どこに生きているのか、ということをもう一度思い出させてくれる指摘です。私たちは、リアルの世界の秩序の中に活きているのであって、デジタルの秩序に従っているのではない、ということです。人間はどこまで行っても人間であり、機械ではない。にも関わらず、機械的な即時処理、同時処理を模倣しようとする。そこには本質的な不可能性があり、それゆえに、人間は「疲れ」を覚える。 著者は、そう指摘したいのではないでしょうか。
換言するなら、これはある意味で、「人間の機械への隷属」の典型例、と言えるでしょう。機械が人間を支配しているのではありません。人間が、自ら自分を機械の奴隷にしている、のです。 現代社会がこれほど病んでいるのは、このような奴隷化がもたらす必然、と言えるのではないでしょうか。
聖書は、「あなたはキリストによって解放された自由人である。だから神以外の何者の奴隷にもなってはならない」と命じています。 なぜなら、罪とはすなわち、何かの奴隷になることだからです。パウロはこのことを次のように述べています。
「キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。」(ガラテヤ5:1)
パウロがここで言及している「奴隷のくびき」とは、直接的には、割礼の強制を典型例とするユダヤ教の律法主義のことです。 しかし、言葉を代えて言えば、それは「文字への隷属」と言えるでしょう。 パウロは、そのような非人間的なものの奴隷になってはならない、と命じるのです。
もうお分かりと思いますが、上の「文字」を「機械」に置き換えれば、現代の私たちにそのまま適用できるのではないでしょうか。パウロは、神以外のものに隷属しようとすること、それこそが罪の本質であると見抜きました。であるなら、現代に生きる私たちが、機械に隷属することは、まさしく「罪そのもの」ではないでしょうか。
現代という時代は、上記のような事柄について深く考えることをしないまま、「疲れ」だけをいやしてほしいと求める。そういう時代ではないかと思います。 つまり、原因には手を付けないまま、表層的な疲れだけを取り除こうとする。 その結果はどうでしょう。本質的な魂のいやしには決してたどり着けないのは、自明ではないでしょうか。
私たちキリスト者は、自分自身が奴隷化していないかどうか。虚心坦懐に自己吟味すべきではないでしょうか。そしてその代わりに、キリストの自由を、もっと豊かに味わって行きたいものです。
コメント
なるほどです。
マルチタスクなども考えさせられました。
知らず知らずのうちに過度に疲れていると思います。
機械の奴隷にならぬよう、みとこばをまずにぎっていきたいです。