所属教派の60周年記念大会に出席していた先週末の3日間、ニュースから遠ざかっていましたが、世は中国船の船長の釈放をめぐって大騒ぎになっていたようです。 「国辱」「弱腰」「こんな屈辱は経験したことがない」「迷走」「誤算」等々の文字が、インターネットも含めたメディア上を飛び交いました。そして今でも、その問題は続いているようです。
私自身はといえば、全てはタイミングであった、と思っています。このような大事になる前、少なくとも衝突した当日かその翌日に釈放しておけば、このようなことにならなかったのは明白です。 いたずらに当事者間に「考える時間」を与え、一方には期待を、一方には怒りを与えるだけに終わった今回の政府の対応は、「時流を見る目」という点で、非常に稚拙であったと言えます。 そして、それを報じるメディアもまた、頭に血が上ってしまったのか、右派系も左派系も同じような論調で、中国の強硬姿勢と、政府の弱腰の両方を非難するだけに終わっています。
もう少し冷静な議論が出来る人はいないのか、と思っていたところ、以下のような良い記事を見つけました。
日中「戦略的互恵関係」の終焉? [ニューズウィーク日本版 オフィシャルサイト]
記事中にある「日本は中国と喧嘩できる立場にない」という文言に、私たちが認識しなければならない重要なポイントがあるように思います。 私たち日本人は、今回の尖閣諸島問題において、ある意味で、「このところ押されっぱなしの中国に、一矢報いることができるかも知れない!?」という期待を持ってしまったのではないでしょうか。 いわば、ヘビー級ボクサーに、フライ級ボクサーがカウンターパンチを当てて、KOは無理としてもよろめかせることはできるのではないか・・・と、そう感じたのではないかと、私は思うのです。 もちろん、そのような幻想を抱かせたのは今の政府なのは明白です。 民主党政権になってつくづく思うのは、「この党は、国民に幻想を抱かせて、そのすぐ後に失望させる才にかけては天才的だな」ということです。 今回の尖閣諸島問題も、無意味に期待値を上げたものだから、落ちた時の落差が大きいのです。
しかし、現実問題としては、日本という国は、もはや中国無しでは到底成り立たない国であることは明白でしょう。大量の失業者を生みたいのなら別ですが、経済的には中国という国があっての日本です。 そういう大局的な視点を脇に置いて、南方の、誰も住んでいない小さな無人島のことでいたずらにナショナリズムを燃え上がらせるのは、全く無意味なことです。 もちろん私は、島を手放せとか、そういうことを言っているのではありません。 大人の対応が必要だ、ということです。 そして、今現在の自分たちの立場がどういうものなのか、その現状認識が必要だ、ということを言いたいのです。
右派の人々が言うような、「尖閣諸島は日本人の誇りだ!」などというフレーズは、私には虚しいスローガンにしか聞こえません。 日本人の誇りは、あのような小さな島にしかないのですか? 日常生活に於いては気にも留めていないのに、「失うかも知れない」と思うととたんに恐れにとらわれるのですか? そもそも「誇り」とは何ですか? 土ですか? 岩石の塊ですか? 石油ですか? そのような「目に見えるもの」、「時が立てば失われていくもの」を「誇り」にしていて、視野が狭くなってはいませんか? 尖閣諸島を失うと、命までも失うのですか? 一人の船長が帰国したことが、それほどに「屈辱」なのですか? 本当の意味で屈辱なのは、ちっぽけなナショナリズムに踊らされて、怒りや憎しみに囚われて生きる、あなたの人生の方ではないですか? ・・・そう問いかけたいのです。
聖書は、次のように言います。
「誇る者は、ただ、これを誇れ。悟りを得て、わたしを知っていることを。わたしは主であって、地に恵みと公義と正義を行う者であり、わたしがこれらのことを喜ぶからだ。──主の御告げ──」(エレ ミヤ9:24)
ここには、キリスト者は神以外のいかなるものをも誇りとしてはならない、という重要な真理が記されています。 クリスチャンとは、どういう立場であるとか、どういうものを持っているかとか、何が出来るとか、そういう事がらを重要と思わない人々のことを言います。 「神を知り、神に知られ、神に贖われた者である。 それ以上に重要なアイデンティティは存在しない」。 ですから、当然、島とか、土地とか、石油とか、そういうもので自分の誇りを主張してはならない、ということです。 これが聖書のメッセージなのです。
さらに言うならば、この地上の「国」ということすら、キリスト者にとっては、さして重要なものとはいえないでしょう。次のようにある通りです。
「彼らの最後は滅びです。彼らの神は彼らの欲望であり、彼らの栄光は彼ら自身の恥なのです。彼らの思いは地上のことだけです。けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。」(ピリピ3:19~20)
クリスチャンとは、地上の事がらに心を奪われたりはしません。 まして、上の「彼ら」のようにそのことで怒りや憎しみを増幅させたりは決してしない人々です。 クリスチャンは神の国の市民であり、本質的に、国境から自由な者であるはずです。 ですから、キリスト者にとっては、今回の事件は問題にはならないはずです。 キリスト者には、たとえこの地上の国が滅びても、天の故郷という永遠の家がある。 それが聖書のメッセージだからです。
私が最も恐れるのは、今回の事件をきっかけに、偏狭なナショナリズムが市民権を得ることです。 「国辱」などと言う言葉には、私の目には、太平洋戦争前後の時代を思い起こさせるような、ゾッとする言葉です。 あの時代は、そういう言葉が一人歩きして、老いも若きもこぞって「アメリカ憎し」に凝り固まっていきました。 メディアも、そういう感情を増幅させる装置として機能したのです。
私たちは、同じ過ちを繰り返してはなりません。 とりわけキリスト者は、平和の使者として、偏狭なナショナリズムには与しない、という姿勢をしっかりと守るべきです。 そうでなければ、いつの間にかこの世の力に取り込まれてしまうことでしょう。 そして、塩味を失った塩、光を失った灯りになってしまうのです。
今回の出来事は、そういうことを考えさせられた、絶好の機会でした。
コメント
yutaka 様
コメントどうもありがとうございました!
> 過去の歴史認識の問題や、政治的駆け引き
> などが絡んでいることはわかりますが、粛々と
> 法治国家として、国の主権を主張すべきと
> 思います。
ご意見の意図はよくわかりますし、私もそれで問題が解決するのであればそうすべきと思いますが、現実問題、それで突っ走ったとして、今回の問題が解決に向かうとお考えですか?
私には、「粛々と」ということばは、事件発生当初から政府の人々が使い続けて、結局は軌道修正しなければいけなくなったことを見てもわかるように、「後先考えずに自分の主張だけする」というのと同義のように感じられるのです。
私は、「現実的な解決」を最優先すべし、という主張を、本文からずっと一貫して主張してきたつもりです。それに対して、「剣」様のように「正義は主張すべき」、あるいはyutaka様のように「粛々と主張すべき」という意見をなさるのであれば、どのようにして問題を解決するおつもりなのか、その「解」をきちんと提示して頂きたいのです。
「主張せよ!」と叫ぶだけなら簡単であり、誰にでもできることです。けれども「主張」した『後』のことを考えてから「主張」して頂きたいのです。
私は、「政治とは理念を『具体化』する営みだ」と理解しています。具体策の伴わない政治は一歩も前に進まず、国民に不安を与え、諸外国にも不信を与えるだけです。真のリーダーシップとは、理想を語るだけではなく、具体策を提示してこそ意味のあるものになるのではないでしょうか。
・・・
> 究極的には天に国籍を持つ者であるとしても、
> 今、日本人として生かされていることの意味
> は決して小さいはずはないとも思っています。
> その意味で、自分の国を、国土を尊重したい
> と思います。
私は、この「尊重」という言葉の意味するところが重要だと思います。国を、神の国の民であるという事実の「次」に「尊重」するのなら分かりますが、「はじめに国ありき」となるのならば、それはこの世の人と何も変わらないことになります。
天国に国籍があるとは、本来は天国人でありながら、今現在、日本という国に寄留している、という意味ではないでしょうか? であれば、「母国」たる神の国以上に、それをこえて、寄留している国を尊重することはあり得ないはずです。
私がこれまで一貫して書いてきたこともそういうことです。つまりクリスチャンとは、自分の属する「国」という概念を、神の国の次に置く人。そういう人の事を言うのだ、と言いたいのです。この原則が曖昧なものだから、クリスチャンでありながら靖国神社に拝礼するということが平気でできてしまうのです。この世はこの世、神の国は神の国。そういう風に分割してしまっている。イエスは、「神の国は、あなたがたのただ中にある」と言われましたね。これこそ、「この世にありながら、神の国の市民として生きよ」という召しだと私は信じています。
ですから、日本という国に仕えるのは、神の国の倫理に矛盾しない限りであって、逆ではないですよね。もちろん、今自分が置かれている日本という国を大切にし、法に従い、市民としての義務を果たすことは当然のことです(前も引用しましたがローマ13章)。それを否定したことは一度もありません。アナーキストと思われるとすれば、それは私の本意ではありません。
けれども、日本のクリスチャンが「日本に置かれていることの意味を考えて、自国の利益を主張」する一方で、中国のクリスチャンが「中国に置かれていることの意味を考えて、自国の利益を主張」する、としたらどうでしょう。何の解決にもなりませんね。結局、主張のぶつけ合いではありませんか。「迫害下の中国のクリスチャンを思いやろう」と言いつつ、結果的には彼らに対立することにはなりませんか?
どうしてそうなるかといえば、日本という目に見える国から出発するからです。そうではなく、クリスチャンは、「神の国の市民である」という、「上からの方向」から自分と、自分の属している国とを捉え直すべきです。私はまさにこの点において、クリスチャンこそ「国や歴史観を超えて一致することができる」のだと信じています。それこそが唯一の希望だと信じるのです。
天国民という身分よりも先に「日本人」を出した瞬間、相手も「私は中国人だ」と言って議論は成り立ちません。それは火を見るより明らかです。「自国の主張は主張せよ」、と言っておいて、「でも対話はしたい」と言うのは、二律背反ではないでしょうか?
p.s.
私のブログは、オブラートに包んだりせず、考えていることを明確に記すようにしています。そのため、「挑発的」との印象を与えることは、もしかするとありうるかもしれません。しかし、万人受けする内容を求めていくと、国会答弁のような意味不明の文章になります。私はそういう文章は載せたくありません。・・そういうわけで、yutaka様にも遠慮無くお返事させて頂いている次第です。不快に感じられましたらどうかお赦し下さい。
お久しぶりです。
難しい問題について、いろいろと、議論がされているのを、興味深く読ませていただきました。
日本の主権、法治国家としての秩序を守るということと、靖国問題は別の問題だと思います。それが一緒になってしまっては………議論がかみ合いませんよね。
私は、靖国については、単純に、偶像礼拝である故に、参拝しません。それだけです。キリスト者として当然のことだと思っています。
しかし、尖閣諸島問題については、法治国家、国家の主権の問題と考えています。過去の歴史認識の問題や、政治的駆け引きなどが絡んでいることはわかりますが、粛々と法治国家として、国の主権を主張すべきと思います。そういう視点から観れば、当初のブログの門谷さんの意見には、いろいろと疑問を感じることがありました。
その後の議論で、門谷さんも現実的な対応をいろいろと考えていらっしゃることはわかりましたが、後出しの観は否めません。誤解されるのを承知で、挑戦的に意見を発したように感じました。
私は、まだまだ、キリスト教界、特に福音派の意見が、ステレオタイプになっているのを感じるのです。福音派のクリスチャンがいわゆる”左派”的な考えを持たなければならないはずはないと考えます。一方で、靖国のように、絶対に譲れない問題もあります。その辺を論点事に整理して、冷静な対応をしていかないと、世にあって証しをしていくことも難しくなると思います。
日本人として生まれたことの意味を、どう受けとめるのか………いまだ、私としては、十分な答えは与えられていません。究極的には天に国籍を持つ者であるとしても、今、日本人として生かされていることの意味は決して小さいはずはないとも思っています。その意味で、自分の国を、国土を尊重したいと思います。
今回の中国の問題は、明らかに、中国という国の持っている問題が露呈した事件だと思います。一般に言われていることですが、多くの民族を力で無理矢理ひっつけている、ハッキリ言えば、弾圧と侵略を現在もしている国であることは確かです。
キリスト者はむしろ、中国内の少数派ではあっても、戦いの中に置かれている人々、キリスト者たちに思いを寄せていくべきではないか。それは、単に、日本のナショナリズムの問題ではない、と思っています。
韓国にしろ、他のアジアの国々にしろ、ただ、自分たちの国を称賛する人々ばかりではないはずです。国を愛しつつも、世の支配者たちの問題や限界を知って、憂えているクリスチャンたちはたくさんいるはずです。クリスチャンなら、そんな人々と、分かち合える、話し合えるはずだ!と思いつつも、現実には難しいと感じています。
歴史認識の問題も、そういう観点から、対話が出来るような状況になることを、願っています。現実には難しいのですが…。
とりとめもなく書きました。論理的でないところは、お許し下さい。
> 「尖閣放棄とは言っていないと言いつつ、
> 先生は既に尖閣を放棄しておられるのです。」
はい、そうですね。私は「この世のいかなるものにも執着しない」、という意味においては、「尖閣を放棄」していますね。それは認めます。
その根拠は、この地上に属するすべてのものは、やがては失われて行くからです。聖書にはっきりそう書いてあります。そして、「失われていく」という観点からすれば、生活だろうが、キャリアだろうが、お金だろうが、尖閣諸島だろうが、あるいは日本国全体であろうが、すべて同じだということです。
ですから、究極的な価値観、神の視点から見て、そのような一連の「モノ」に拘ることは意味のないことと考えます。そしてこれは、キリスト者である者なら当然持つはずの価値観だと私は思っています。
・・・
その一方で、私は、「剣」様が仰るように、今回のような威嚇的な中国の侵入を非常に不当なやり方だとも思っています。日本が現在実効支配している以上、それが継続できるように政治が最大限の努力をすべきだとも思います。
しかしここで「最大限の努力」とはどこまでか、という点において、定義付けが必要になってくるわけです。
「剣」様は、「尖閣諸島は日本の不可侵の領土だ!」とあくまで主張することこそ「正義」だと考えておられるのでしょう。
ある程度までは、私もその必要性を認めます。ある程度までは、それが正しいやり方だとも思います。
「ある程度」というのは、もしそのような主張を一方的に放ち続けるだけでは、問題は解決しないこともある。いやむしろ、膠着状態か、中傷合戦か、報復のエスカレート、一触即発の危機、ということにまで発展することの方が多いからです。
私はそうなるべきではない。そうなってほしくはない、と思っています。だからこそ、現実的な対応が必要だと言っているのです。今回の例で言えば、船長を尋問するはして、早期に解放していれば良かったと思います。それをいたずらに長引かせたがために国民は期待をしてしまいました。「覇権主義の中国相手に溜飲を下げる機会が来たぞ」と。
ところが、実際に政府がしたことといえば、相当期間がたって、中国から次々と報復措置が打ち出された「後」になって、それも「グレー」としか見えないような理由で船長を解放しました。誰がどう見ても、「圧力に屈した」という印象しか与えない解放の仕方です。
真相はどうだかわかりませんが、それがどうであれ、国民はそう感じたでしょう。「剣」様も、同じ印象を持たれたのではないでしょうか? 私もそう思いました。そして、まさにこのような初期の政府の一連の対応策を見て、「稚拙であった」と評したわけです。大人のやり方を心得ていない、先を見る目がない、と。
けれども、私はそのように表する一方で、この問題を冷めた目で見ているのも事実です。というのが、一番最初にあげた、「この世には、執着すべきモノなど無い」という理由によるものです。
ですから、この私の中には、二つの価値観があるといえましょう。一つはこの世の価値観であり、もう一つは、聖書の神の価値観です。そして、どちらの価値観がより重要かと問われれば、後者を選ぶ、という点において私は一貫した態度を示したいと願っています。
この「二重の価値観に生きる」という原理が理解されない限り、「剣」様と私とは、それこそ「百万語」を語り合っても平行線のままでしょう。
私はキリストを信じた日以来、神の国の価値観を第一にして生きるような者になりたいと決心しました。そして、その決心を変えるつもりもないのです。
100万語を弄しようが、
「領土不可侵」を否定することが、
まさに尖閣の放棄である事にお気づき下さい。
領土に入るには国際的に合意された手続きがあるのです。
尖閣を寄こせと言う国の、手続きを無視した侵入を許すこと、
それが即、尖閣放棄なのです。
「領土から離れては如何か」
今、24時間昼夜を問わず、あの海域に張り付いている、海上保安庁の隊員たちに、
本気でそう言われますか?
尖閣放棄とは言っていないと言いつつ、
先生は既に尖閣を放棄しておられるのです。
「カイザルのものはカイザルに!」
先生は、明らかにこの命令を踏み越えていると考えます。
とても詳しいお返事ありがとうございます。
冷静に、丁寧に書いて下さったことが伝わってくる文章でした。ありがとうございます。
いくつか感じたことを書かせて頂きます。
まず「当初、先生も、尖閣放棄の御主張かと思いました」という文章ですが、最初のブログ本文にも「もちろん私は、島を手放せとか、そういうことを言っているのではありません」と明記してあります。はじめから、私は島を放棄せよ、という主張は申しておりませんし、むしろその反対なのですが・・。
その上で、私が「偏狭なナショナリズム」と呼んでいるのは、「尖閣防衛=日本のアイデンティティ」であるかのような主張、あるいは、これ絶好の機会とばかりに中国脅威論や嫌中感情を煽り立て、日本の軍備を増強して対抗すべし、というような、ある意味で、この問題を「足台」として強硬外交に打って出よというような主張に対して向けたものです。
私がこのような危惧を持つのは、言うまでもなく太平洋戦争前後の歴史を学んでのことです。あの時代も、「領土」や「国体」が、不可侵であるかのごとき主張が繰り返されました。それは、中国本土や台湾、韓国など、元々日本が軍事的に占領した土地に対しても同様でした。そして、そのような主張を貫き通した結果は何だったでしょうか? 国民の「いのち」という、何物にも代え難い犠牲でした。
私は、「あの戦争は仕方がなかった」「あの当時はあれしか選択肢がなかった」というような主張には与しません。人間のいのちよりも重要な「領土」や「国体」など存在しないと信じているからです。そもそも「国」というものは、「国民」があって初めてなり立つものです。「民」こそが「国」であり、領土というものは、移り変わっていくものにすぎない、ということです。
もちろんこの考え方は、領土不要論とか、流浪の民になれとか、そういう主張をしたいのではありません。土地があって初めて暮らしが成り立つ、ということは当然の事実です。しかし私は、「それが絶対に無ければ生きられない」とか、「生活がかかっているから絶対に死守すべき」とまでは思いません。
なぜか。神は必ず私を御許に行くときまで養い続けて下さると信じているからです。そして聖書を読めば、イスラエル民族が自らの罪ゆえに国が滅びて、アッシリヤやバビロンで虜囚の身とされたときでさえ、神は彼らをその地で守って下さった、という事実が記されています。まさにこの事実のゆえに、私は「領土としての国」に固執しないのです。さらに、究極的には、キリスト者はこの地上を離れて神のもとに行きます。この地上は仮庵だということです。だから、そこだけに目を奪われることは決してしないのです。
もちろん、「天だけをみて今の世はどうなのか」という声が上がることは承知しています。「剣」様も、そのような危惧を持たれたのではないかと思います。それに対しては、イエスの次のことばを引用したいと思います。
「さて、神の国はいつ来るのか、とパリサイ人たちに尋ねられたとき、イエスは答えて言われた。「神の国は、人の目で認められるようにして来るものではありません。『そら、ここにある』とか、『あそこにある』とか言えるようなものではありません。いいですか。神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。」(マタイ17:20~21;新改訳)
上の御言葉で、イエスははっきりと「神の国は、あなたがたのただ中にある」と言っています。神の国は、すでにキリスト者のうちに成就しつつある、と言うのです。ですから、キリスト者はこの地上にありながら、天の御国にあるかのごとくに生きることができる。イエスのように生きることができる、ということです。そのことを指して、私はブログ本文で「天に故郷がある」と記したわけです。
確かに、この世で生きて行く限り、主張しなければならないこともあるでしょう。私も、中国に膝をかがめよとか、そういうことを言いたいのではありません。そうではなく、「一度、領土に対する執着心をとらえ直してはいかがですか? 本当にそれは不可侵のごとく主張すべきものですか? 土地や歴史といったしがらみから離れてみてはいかがですか? そうすれば、自由を味わうことができますよ!」と申し上げたいのです。
キリスト者はこの地上の国から自由な者である、と私は信じています。それは、国を軽視せよとか無視しろとか、そういうことを言いたいのではありません(ローマ書13章にあるとおりです)。しかし、国への忠誠と、神への信仰のどちらが重要かと問われれば、迷わず神に従う道を選びます。それが、「神を信じる」ということの意味であり、十戒の精神であると信じているからです。
・・・
長くなりましたが、「神」の訳語についても一文書きます。
「剣」様は、聖書の「神」と、古事記その他の「カミ」とは違う概念だと考えて、訳語を使い分ければよいと仰りたいようですが、そのような議論は以下の点から問題があります。
旧約聖書においては、唯一の神を示す言葉として、ヘブル語の子音字「YHWH」が用いられていますが、それと共に、「エル」という呼称も大量に用いられているのです。ではこの「エル」という単語は、唯一の神を示す場合だけに用いられているのでしょうか? いいえ、そうではありません。 カナンの諸宗教の神、つまり「バアル」や「モレク」といった偶像神に対しても、全く同じ「エル」という単語が用いられているのです。
これが意味するところは何でしょうか? それは、聖書本文は、用語を使い分けることで神の違いを出そうとはしていない、ということです。聖書はむしろ、「どのような神か」「何をされたか」「どのようなご性質をもっておられるか」「人類にどう関わっておられるか」という事がらを通して、「聖書の神とはこのような神だ!」と主張しているのです。
ですから、問題の本質は訳語を使い分ければよい、という話ではないのです。聖書は使い分けていないからです。聖書が使い分けていないものを、日本語に訳すときに使い分けるわけにはいきません。それは恣意的な「解釈」であり、「翻訳」ではないからです。だから日本語の聖書では「神」とそのまま訳しているのです。
ですから、たとえ聖書の神を「天主」と訳したところで、問題は解決しません。重要なのは「あなたの信じている神はどのような神ですか」ということにあります。「どのような神か」をしっかりと知り、知識に基づいて信仰を持つことが重要です。
私の見るところ、失礼ながら、「剣」様は、聖書の伝える「神」について、あまり存じておられないのではないかと感じます。古事記には通暁しておられるようですが、ご自分を「クリスチャン」と評されるからには、「古事記」よりも「聖書」の神をもっと知られるべきではないでしょうか?
そんなことを感じた次第でした。
長文にて失礼!
私如き偏見を掲載された上、ご丁寧な御返答、恐縮です。
●私の考えは、尖閣および尖閣に生きる人達は断固守るべきであると言う一点です。
断固と言う意味は、あらゆる手段を尽くしてもと言う意味です。
相手が強いからと言って、見捨てる訳にはいかないと言う意味です。
尖閣を見捨てるとは、東京湾を捨てると同義であると言う意味です。
問題は、
尖閣を含む広大な海域を自国領と法定し、
同海域に所在する、西沙、南沙を、比島から米軍が撤退するや直ちに、
関連各国の領有の主張を圧殺、軍事支配し、
今は、反日教育で作り上げた、まさに偏狭なナショナリズムを梃子に、
尖閣に領土的野心を露骨にする中国にどう向き合うかと言う事であると思います。
我が国には「今に国境など消滅する、洋上の小島等に恋々とするな」と言う意見もある事を承知しています。
自分の日常に殆ど関連しないからと言って、遠くの友人達を見捨てるこの様な不見識には、
厳しく反論すべきと思っています。
当初、先生も、尖閣放棄の御主張かと思いました。
しかし、今回、尖閣を守るためには、時に厳しく対処すべしと言われます。
されば、何故、「何としても、尖閣守るべし」とする人達に、
偏狭なナショナリストのレッテルを張られるのか、理解し難い所です。
先生は、政府の対応を、愚かとされます。
逮捕、拘留、拘留延期、釈放、何れが愚かと言われるのか判然としませんが、
今なお、政府の危機管理は継続中です。
愚かであったかどうか、今は、私には判らないと、以前申し上げた通りです。
但し、既に何十年も外交問題となっていた尖閣に関る事件について、
建前は兎も角、一地方の官庁、那覇地検に、
国として当たるべき危機管理の全責任を負わせ続ける政治の無責任は許し難い事であるとは思います。、
●「正義は偏見なり。
しかしそれを敢えて主張すべきである場所が国際社会である。」
聖職にあられる方には、理解できない事と思います、
多少とも国際関係を深刻に眺めた者にとっては、隠された真実なのです。
簡単に申し上げます、
今回、我が主張が正義なのか?
中国の主張が正義なのか?
如何でしょう?
どちらかが偏見でなければ、論理は成立しません。
無論、神の目からは、時により、双方ともに、偏見である事もありましょう。
しかし、今は、敢えて強烈に主張せざるを得ない場所(国際社会)があると言う現実は、見据えておかねばならない。
そう言う意味です。
落とし所の知恵、それが現在進行中の危機管理です。
領有権がテーマですから、選択肢の幅はあまり広くないだろうと覚悟はしていますが。
●靖国奉祝奉賛会員が、靖国の歴史に疎い筈がありません。
「歴史認識とは、また厄介なものですネ」と言えば、先生にもお分かり頂けるでしょうか?
靖国、そして前の戦争およびそれに関った人達、天皇に関する関る認識は、
歴史認識を含めて、先生とは見解を異にするものです。
そして、私は古事記から戦争の歴史まで切れ目なく、我が父祖の歩みとして愛情を抱きます。
靖国は、私にとって、信仰とかに関係ない、まさに愛すべき我が国歴史の一片なのです。
然るが故に、守り部の神道にも当然敬意を払います。
異教と言って、排除の論理には立ちません。
あの戦争の時間だけを切り捨てて、意気揚々と闊歩しようとも思わない。
世にあるものは、すべからく神の造りたもうたもの、
神の造りたもうたものに無駄など何一つない。
パウロの言葉であったと記憶しますが?
この大らかな包容力を見失った我が国キリスト教の隘路ーーー
その様にも思う次第です。
因みに、靖国は戦死者を御祭「神」としています。
その昔の聖書には、「神」なる日本語は無かったとも聞きます。
ヤハウェ、天主であったとか。
何故、明治が、多神の国の訳本に、態々、既に多神を意味していた「神」なる訳語を使用したのか?
ささやかな私の疑念です。
神は全能、人間は所詮偽物、
どこまで行っても絶対真ものたりえぬ人間の愚かさでしょうか?
又はキリスト教の土着を願った、知恵?
クリスチャンとは言え、信仰薄き者と自任している俗物ですから、
先生には歯がゆい世俗と映るでしょうがーーーー。
再度に亘って、掲示板を汚した無礼を深謝しつつ。
貴重なご意見感謝致します。
このような意見は当然出てくるだろうな、と思いながら書いた文章でしたが、コメントをいただけたことでその思いも裏付けられたように思います。
ただ、ご意見は貴重なものとして承りますが、キリスト者としては、承伏しかねるものがあります。
まず、「国際社会にあって、正義は偏見なりと思い切った上で、敢えて申せば正義は堂々と主張さるべき」という点について。
私は、「偏見だとわかっているような正義は、正義ではない」と考えます。そして、そのような「正義」を声高に主張しても、何の解決にもならないと思います。それこそが今回の出来事の教訓であり、私たちが歴史から学ぶべき点ではないでしょうか。
お互いが自分の「正義」を主張しても平行線のままで何の解決にもならなず、どこかで落としどころが必要です。理想ばかりを追い求めていては、最終的には国民が路頭に迷うことになります。私たちは現実の世界を生きているのですから、現実的な知恵が必要となります。私はそのような「知恵」の面において、今回の事件の政府の対応は、稚拙であったと思っているのです。
「尖閣諸島の海で暮らしている方がいる」、という視点は確かにその通りです。私も、そうした方に出て行けとか、場所を変えろとか、そんなことを申し上げるつもりは毛頭ありません。彼らの生活の糧は守られなければなりませんから、その点において、これからも海上保安庁はじめ政府には努力していただきたいと思います。時には毅然とした態度も必要でしょう。しかし、今回のようなやり方は知恵がない、ということを申し上げたいのです。
私の論調に、「日本人、日本政府に対する、怒り、侮蔑が感知され」る、というご指摘についてお答えするならば、むしろそれは「偏狭なナショナリズムにすぐに同調してしまう人に対して向けられたもの」と言いたいと思います。それはブログ本文の結びにも書かせて頂いたとおりです。
・・むしろ私が気になるのは、コメントを書いてくださった「剣」様ご自身が、ご自分の考えを日本人一般の考えであるかのように考えておられるのではないか、ということです。
…というのも最後の段落において、「剣」様は、靖国に参拝している旨、ある意味で「これが日本人として当然の振る舞い」であるかのごとく(すみません、私にはそう感じられました)書いておられますが、私にはそれは日本人一般の考えとは思えませんし、それが日本人の美徳とも、日本人の当然あるべき姿とも、到底思えないのです。
靖国神社にクリスチャンが参拝する、ということは、私には想像もできないことです。靖国神社の歴史をしっかりと勉強したことがおありでしょうか? それが国民をして、人間に過ぎない「天皇」のために、簡単に死を選ばせるような、そういうシステムとして機能したことを、しっかりと学ばれましたか? であるならば、どうしてその象徴たる靖国神社を、クリスチャンが「崇敬」する必要があるでしょうか。キリスト者とは、平和の使者ではないのですか?
そしてまた、靖国では兵士たちが「神々」として祀られていることを知ってのことでしょうか? であるならば、「あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない」という十戒の最も重要な命令を、どのようにお考えなのでしょうか? 「参拝」は「偶像礼拝とは違う」とお考えですか? 私にはそれは、信仰と生活の重大な乖離deari、聖書から離れた「キリスト日本教」にしか見えません。
また、今もなお、天皇のために死んだことを「美徳」とする文化が、靖国神社と、遊就館には根強く残っていることを、ご存じですか? 「死」が美徳なのですか? 死者は崇敬されるべき、ですか? 聖書のどこにそのような事が書いてありますか?
私は靖国神社も、遊就館も実際に足を運んで見学し、書物を何冊も読んで勉強しました。その結果みたのは、国民を死地へと追いやるシステムとして機能した靖国神社のあまりにも深い負の歴史でした。
これを直視するならば、私には、「キリスト者」が靖国神社を参拝するなどと言うことは、想像もできないことに思えました。それは、キリストに対する背反行為、名ばかりの信仰とさえ思いました。
ですから私は、曾野綾子氏の信仰にも全面的に賛成はできませんし、距離を置いているのです。それはもはや「キリスト教」ではないと思うからです。
もちろん、「剣」様がどのような信仰をお持ちであろうと、それはご自分の勝手であり、自由です。日本には信教の自由がありますから。しかし、「剣」様は、私とは異なる信仰をお持ちであると言うことは、確実にいえます。
ですから、議論はかみ合わないでしょう。聖書に従って生きようとする思いがあるのかないのか。私は、神の前に出たときにもっとも問われるのはそこであると信じています。だから生涯をかけて、それを追い求めていきたいと思っています。
その優先事の前では、国家の問題や国境の問題、あるいは「誇り」の問題。そういったことは大きな問題ではない。それが私の信念であり、この記事で「国籍は天にある」という御言葉を引用したのもそういう意図からです。
「剣」様が私と同じ思いを持ってくださったらそれは嬉しいですが、どうやらそれも一朝一夕では難しいように思います。ですから、ご自分の道を行かれたらよいのではないでしょうか。
結局、問われるのは、生涯の終わりに、主の御前に出たときに自分がどう生きてきたか、神の前でどうであったか、だけなのですから。
尖閣は日本の誇りと言う言葉は聞いたことがありませんが、
尖閣近海は東京湾と同じであるとは思います。
その海で生きている日本の人達がいるのです。
つまり尖閣は東京都なのです。
政府の危機管理が稚拙であったか否か、未だ進行中の事案につき私には何とも言えません。
ただ、近年の中国の膨張主義、領土的野心の証左を見るにつけ、
中国の方が強いから波風を立てるなと言う冷静さは、
現世の国民の生存を考えないニヒリズムに聞こえます。
国際社会にあって、正義は偏見なりと思い切った上で、敢えて申せば、
正義は堂々と主張さるべきです。
そして、それは怒りとか恨みの情念とは無関係です。
国籍は天でしょう。
しかし、天だけではないことも紛れのない事実である、
そう言う現実に関連する思念かも知れません。
むしろ、貴方の論調に、日本人、日本政府に対する、怒り、侮蔑が感知され、
宗教家としてはーー?
と虚しい思いを抱きました。
ちなみに、私もクリスチャンですが、曽野綾子ご夫妻と同様、靖国にも行きますし、
靖国崇敬奉賛会員でもあります。
国の歴史に対する愛情からでしょうか?
人様々です。
ご無礼深謝。