前回記事にコメントを下さった皆様、ありがとうございました。今日は別の、考えさせられるネタを見つけましたので、長文になりますが書いてみます。まずは以下の記事をお読み下さい。
英Times、200年に渡る記事を完全デジタルデータベース化
イギリスのTimes紙が、1785年から1985年までの全記事をデジタル化して、無償で公開したというものです。しかも、1985年以降も順次追加公開されるというのです。
その太っ腹具合だけでも驚きですが、もっと驚くのはその膨大な分量。なんと、フランス革命の記事までも検索できるという・・。 これは、すごいことです。 私も早速、"Hiroshima" で検索してみました。広島の原子爆弾投下を、英国ではどのように報じていたのか、知りたかったからです。調べると、1945年8月9日の記事がありました。「広島は、完全に破壊(destroyed)された…」。幅5cmくらいの小さな列に、私たち日本人にとっては衝撃的な出来事が、書かれておりました。
ただ、原爆の悲惨さを語るのが今日の目的ではありません。 今日思ったことは、このような膨大な量の一次資料が、無償で、しかも全文検索可能な形で公開されるということの、はかりしれない意義、またそれを決断した新聞社の卓越した経営センスについてです。
たとえば、日本語で同じような情報を得ようとするとどうなるか。私が昔から購読している某A新聞の場合、1984年から現在までのたった20年の過去記事をオンラインで検索するためには、基本料だけで月3,150円かかり、しかも従量課金までとられます。毎月の新聞購読料よりも高い値段です。いったい誰が契約するのでしょうか。恐らく、個人ユーザは極めて少ないのではないかと思います。
多額のお金を出してまで、制限の多い情報を得ようとする人は限られるでしょう。その結果、せっかくデジタル化しても生かされることの無い情報が眠っているのです。多くの人は、そうしたデータベースが存在することすら、知らないのではないでしょうか。
とかく、日本という国は、著作権者が自らの権利を守ることに必死なあまり、結果として一般に何の貢献もせずに死蔵させてしまうという傾向が強いように思います。それは、先頃話題になっている、地デジの「ダビング10」という仕組みの導入が延期されてしまったことからも分かります。ここでも、権利者側がアナログでは無料で流れている地上波を、ガチガチのシステムで守り通そうとする必死さが障害になっているように見受けられます。
翻って、米国などでは、EPNといって、地デジであってもコピーが簡単にできるがネットには出回りにくいという仕組みを採用しているそうです。それは「一般への露出度合いを増やし、皆に見てもらうことで一層の宣伝効果をねらう」という発想から生まれたものと思います。 先に述べたTimes紙の信じられないような過去記事の大盤振る舞いも、同じ思想なのでしょう。つまり、
「魅力的なコンテンツのある所には、人が集まる」
という単純な理屈です。そのためには、従来、新聞社にとっては飯の種とされてきた記事そのものを、過去にまでさかのぼって無償化することもいとわない。これは、英断だと思います。
そしてもう一点。これが言いたいことなのですが、このことは、デジタル時代の価値の劇的な変化を如実に物語っているのではないか、ということです。それはつまり、
「デジタル時代には、情報は持っているだけでは何の価値もなく、利用されて初めて価値を生み出す」
という原則です。不動産やモノと違い、情報は持っているだけでは何の価値もありません。しかし、それが「生かされるとき」、価値を発するのです。デジタル時代とは、つまるところ、この考え方を極限まで推し進める時代である、と考えられます。
これは、もしかすると、信仰と、ある意味では似た側面があるかもしれません。つまり「聖書の知識は、持っているだけでは何の力もなく、それを働かせて(生かし用いて)、初めて力になる」という真理です。
情報(=みことば)を、一人でも多くの人に見てもらう(=宣教)。しかも、無償で(=奉仕として)、かつ生きた形で(=生活を通して)伝える。どうでしょうか。類比できないこともないように思われないでしょうか。でも、前提があります。
「伝えるためには、発信しなくてははじまらない。」
ということです。自分の受けた恵みを自分の中だけでとどめておくことは、先述の新聞記事をクローズドに囲い込んで、せっかくの良いものを死蔵させてしまう会社の例と、どうしても重なってしまうのです。
オープンに、誰にでも、神を知ることの恵みを、効果的に分かち合っていくこと。そのために、リアルな関係でも、バーチャルな世界でも、あらゆる手段を用いて発信していくこと。その大切さを、改めて思わされたときでした。
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