琴欧洲優勝に思う

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大相撲夏場所で絶好調だった琴欧洲がやっと優勝しました。表彰式の映像を(Youtubeで探して)微笑ましく思いながら見ました。いい笑顔でした。

正直、琴欧洲も大関になってから怪我に悩まされ、大関としては「アレ、いたの?」的な活躍しかできなかったように思うのですが、今場所は人が変わったように。聞けば、体重を増やし、地道な稽古に邁進したのだとか。努力の結晶だったわけですね。

ただ、表彰式をみて別のことを考えていました。それは、外国人(ブルガリア人)である琴欧洲に、なぜこれほど日本人が拍手喝采し、まるで自分のことのように喜んでいるのか。島国根性だとか閉鎖的だとか言われる日本社会で、なぜ外国人がこれほどスムーズに受け入れられているのか。もちろん、今日の外国人力士の地位を築いたのは東関親方(元高見山)や小錦などの苦労あってのことです。ただ、いくら外国人が珍しくない相撲界とはいえ日本の国技。しかももっぱら日本オンリーの世界。そこで、この喝采です。

一つ、その理由として感じたのは「ことば」でした。新聞で読んだのですが、彼はしばらく日本語の読み書きがあまりできなかったのですが、ひらがなの書き取りを練習し、漢字も練習して、いまでは親方と漢字交じりのメールをやりとりしているそうです。実際、優勝インタビューで話す彼の日本語の発音は、非常に滑らか。ほとんど"外人なまり"がありませんでした。これには感心したものです。

そこでふと思いました。日本人は「自分は英語(や他の言語)は苦手である」というコンプレックスを持っているが、同時に自国語の日本語は、外国人から見ると非常に難しいということは知っている。だから「コニチハ」と言われただけで、喜ぶ。まして流ちょうな日本語を、外人が喋ると、それだけで尊敬の念を持つのではないか、ということです。

相手の国の「ことば」を身につけると言うこと。それは肌の色や人種、目の色といった違いを、乗り越えさせる、すばらしい力を持ったものだと言うことです。

仮に、琴欧洲がまげを結い、まわしを締めるなど、相撲の風習になじもうとしても、いつまでたっても日本語がたどたどしければ、おおかたの日本人は「なんだよ、5年もいるのに」と思うでしょう。彼の優勝があれほど喜ばれたのは、彼が身につけた言語能力によるところが大きい、と私は感じました。

最近、ある宣教師ご夫妻の、アジアのある国での宣教報告を聞きました。彼らは神様の召しを確信して仕事をなげうって宣教師となり、日本で訓練を受けて現地に遣わされるのですが、なんと日本では言語訓練は一切行わないのだそうです。それは、日本で学ぶことによって"変ななまり"がつくのを防ぐため、とのこと。つまり、現地に行くまで一切現地語は知らないわけです。現地に行くと、1年目は100%言語訓練だけをやらされます。厳しい試験をパスして認められると、2年目からは50%の時間は、宣教活動をしても良いと言われるそうですが、50%はことばの習得です。そしてまた試験があって、3年目はやっと75%の時間、宣教師の活動ができますが、25%はまだ勉強です。

つまり、それだけ言語習得を重視していると言うことです。その結果でしょうか。その宣教師は、「今では、半○○(派遣された国)人と言われます」と笑いながら語っておられました。現地の人々の信頼も勝ち得ている様子でした。

相手の分かることばを完璧に習得すること。

神の「ことば」に仕える者として、教会の方々に、また教会外の方々に、どのようにして「神のことば」をお伝えするか。琴欧洲の姿に、宣教師の歩みを振り返り、考えさせられる出来事でした。

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