ケータイ・イン・パブリックスペース

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教会の友人から「更新してよ」とリクエストをもらったので、久々に更新してみる。今日のお題は
ケータイ」である。

昨日実家に帰るとき、電車とバスの中の両方で、携帯で話している若者(といっても私より年上かもしれないが)を見た。
それ自体は別にありふれた光景であるが、私が注目したのは、話している若者を見る周りの人の怪訝な顔であった。あるご婦人は明らかに
「バスの中で何やってんの。常識無いわねっ!」という雰囲気が、ありありと顔に出ていた。

このように、携帯は乗り物の中では嫌われものである。電車やバスを一歩降りれば、そこで誰がケータイを使おうと、
あまり気にしないだろう。しかし、一歩電車に踏み込んだならば、そこは別の空間である。ケータイを取り出して「今日ど~だった~?
エ~まじ~?ヤッベーよそれ」などと話そうものなら、たちまちあなたが「ヤッベーのはオマエだ!」という目線を浴びるだろう。

ではなぜ嫌われるのだろう。「公共の場所での当然のマナー」とか、「ペースメーカーを装着された方への配慮」等々は、
昔から言われてきた。しかし、前者に関して言えば、たとえば女子高生が楽しそうに友達と話していても誰も気にならないし
(度を超してうるさければ別だが)、子供とお母さんの会話などはむしろ、こちらまでニコニコしてくるのではないだろうか。そう考えると、
別にケータイであっても、小さな声で話していれば、問題はないのではないかと思えてくる。

しかし、たとえ小さな声でも、ケータイで話している人を見ると、やはり私たちの心には、何かイライラ感が募る。私は、その原因は、
すぐそこにいて姿形も見える人が、
その場にいない顔も知らない第三者とコミュニケーションを取っていることへの嫉妬感
」ではないかと思うのである。

どういう事かというと、同じ電車に乗っている人は、赤の他人ではあるが、一つの空間を共有しているいわば
運命共同体の一員」なのである。だから例えば先日の事件などのように、
列車が脱線するような事件が起こると、同じ車両に乗っている人たちは一致して協力し、そこに一種の「仲間意識」ができあがる。
電車の一つの車両に乗っている人々はそういう意味で、他人の集まりではあるけれど、完全に他人ではない
という微妙な集団なのである。だから、完全に他人ではない人が、完全な他人(=ケータイで話している相手)と、
自分を無視して話しているのを見ると、釈然としないものを感じるのではないだろうか。集団に属している
(=車内にいる)からには、その中の人をまず第一に尊重すべきであって、遠く離れた所にいる家族や友人ではないはずである。

人間は誰でも、自分が尊重されていると思いたいし、他人にもそうしてくれることを望む。だから、相手を目の前にしながら、
その人が居ないかのように、別の人とコミュニケーションを取ることは、その人に対する侮辱であると言えるだろう。その意味で、
最近見かけるのだが、明らかにカップルと思われる男女が座っていて、
それぞれがパートナーが居ないかのように自分のケータイを取り出してメールを打ったりしているのを見ると、
「なにしてんだ!目の前の相手を見ろ。もっと真剣に向き合えよ!」と思う。そういうカップルは、形だけくっついていても、
もう終わっていると思う。

私は別に「ケータイは悪だ」論者ではないが、こういう風景を見ると、ケータイが人と人を近づける便利な道具のように見えて、
しかし最も近くにいるべき人を、逆に遠ざけることもあるのだと思わざるを得ない。周りの人の気持ちを考えずにケータイを操ることが、
どんな結果をもたらすのか。よくよく考えて使いたいものだ。

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