2月11日は、世の中は建国記念の日ですが、キリスト教会は一般に
「信教の自由を守る日」と受け止め、さまざまな集会がもたれます。私の神学校の仲間達は、
朝顔教会で行われたヤスクニ集会に行った人が多かったのですが、私はそちらには行かず、
前から一度行ってみたかった靖国神社に行きました。 行ってみた感想。すごい。いろんな意味で。
街宣車が50台くらい集結していたのもさることながら、一番考えさせられたのは「遊就館」という博物館です。
明治維新から第二次大戦まで、数え切れない展示物でした。平安時代の太刀から、零戦や戦艦の副砲、兵士の遺品類に至るまで、
膨大な「戦争」の資料が展示されていました。・・・が、展示の論調は一貫して「日本が戦ったのは正義の戦争であり、
国のために命を捧げた英霊に敬意を表することこそ、日本人として当然の義務」というものです。 命を捧げた先祖達
(=靖国神社に祀られている”英霊”)を如何にして賛美し汚名を晴らすか。「私たちは平和の尊さを知っています。
平和を守らなければなりません。」といいながら、その後にすぐ「しかしもし祖国が存亡の危機に立ったならば、
すぐに立ち上がらなければなりません」と続きます。結局、戦争の絶対悪や、狂気や、悲しみやうめきや、叫び、絶望といった、
巨大な負の側面は巧妙に隠されてしまっています。「彼ら(英霊)は、心に一辺の曇りもなく、
ただただ国のことだけを考えていました」と聞けば聞こえはいいですが、逆に思考停止している証しです。
国のために命を捧げることが、そんなに尊いことでしょうか。いのちあっての「国」ではありませんか。国なんて、
神さまが造ったいのちにくらべれば、ちっぽけなものでしかありません。そんなちっぽけなもののために命をかけるなどどは、
虚しいですね。 結局の所、国のためと言いながら、その動機は自己中心だと思います。 国家の利益も、元をたどれば、
自分の利益なのです。 戦場に行って相手を殺せば、その相手の家族が涙する。自分が勝っても、相手には計り知れない痛みを与える。
そのことを捨て置いて、「心に一辺の曇りもない」とは、よく言えたものです。 何より、こうした自己中心主義ゆえに、
日本はアジアの国々を解放して「あげるのだ」と、頼まれてもいない「解放戦争」を買ってでたのです。
人間のうちに、純粋な動機などありようもないのです。私たちは、国とか家族とか、自分とか、そういうもののためにではなく、
宇宙を創造し、地球上の全動植物を創造し、私たちを創造してくださった、唯一なる神のためにしか、純粋な動機から何かをすることはできない。
そう痛感しました。