いまから30年前、小学校から中学校で教育を受けた40代以上の世代は、人間の進化というものは、木が幹から枝に向かって分かれるように一直線の道筋をたどった、と教科書に書いてあったことを覚えていると思います。つまり、現生人類はそのように枝分かれした「枝」の一本であり、その一本の歴史を数百万年遡れば、アウストラロピテクスなどの旧人類にたどり着くのだ、と言われていたわけです。ところが、この「交雑する人類」を読むと、そのようなこれまでの理解は間違っていたことが分かります。
どのように間違っているかと言うと、人類の歴史は系統樹ではなくて格子状のものとして理解しなければならない、ということです。なぜなら、現生人類もネアンデルタール人もデニソワ人も、それぞれに交雑(性交渉による繁殖行動)しあっていたことが、著者らの研究によって明らかになったからです。
それを可能にしたのが、万年単位に古い骨からDNAを取り出し、ゲノムを読み取る技術の進歩でした。本書の著者らはこの分野の第一人者であり、世界中から出土した古い人骨のDNAをくまなく調べた結果、交雑は稀な現象ではなく、むしろ当然のように世界各所で起こっていたのだということを科学的に証明したのでした。つまり、古典的な系統樹、つまり太い幹から枝分かれした枝は相互には決して交わらないというような人類史は間違っていて、むしろ枝は複雑に絡み合い融合しあっている、ということです。その意味で「格子状」なのです。
なぜこのような「間違い」があったのか。
それは、従来の古生物学が「形態」と「地層」のみを手がかりとしていたからです。つまり、人間の主観がかなり大きく入りうるということです。ところがDNAによる分析は、そのような主観的な理解を排除し、それぞれのゲノムの変異を直接比較することができます。その結果、現代の人類にはネアンデルタール人由来のDNAが2〜3%含まれていることが分かった、というような具体的なデータを取得できるのです。
そうなると当然、数百万年前とされる人骨についても、同じ事が言えるのだろうかと推測してしまいます。残念ながら、そこまで古い骨からはDNAは取得できないそうです。DNAを取得できるのはせいぜいが最近5万年前までで、それ以上古いものは形態学に頼らざるを得なくなるのが現実のようです。しかしそれでも、DNAによる検証でこれまでの形態学のみに頼る古生物研究の危うさが明らかになった以上は、単純な生物から複雑な生物への一方的な系統樹のような生物分類は一旦、見直さなければならないのではないか、というのが読後の筆者の感想でした。
実際、著者は「ネアンデルタール人やデニソワ人は現生人類とは別の種だ」と主張した学者に対して反対しています。なぜなら、前述したように現生人類と彼らは交雑していたことがDNAから明らかだからです。それどころか、彼らは人類と同じような高度な文化を持ち、死者を埋葬し、霊的な世界に関心を持っていたことまでも明らかになっているのです。つまり、現生人類に遙かに劣る下等な種、という風なステレオタイプ的な見方は正しくない、ということです。むしろれっきとした「人間」であるということです。
そうなると疑問が沸きます。「いったい人類とは何なのか」ということです。
私はキリスト教の牧師ですから、創造論を信じています。自然が生命を生み出したのではなく、知的な全能者である神が生み出したと考える訳です。但し、生み出された生命は未来永劫不変である訳ではなく、生命が変化しうるということは認めています。現にインフルエンザウィルスは毎年のように変異していますし、孤立した環境で生き物の色やサイズ等、形態的な変化が生じることも周知の事実です。人間においても栄養環境等々で平均的な体格が変化することも、誰もが知っている事実です。ですからそれは認めています。一般の科学者たちはそれを「進化」と呼ぶかもしれません。しかし個人的にはそれは「適応」の域に収まる類いの変化であると思います。そして、言語や論理的思考や発話といった高度な人間の機能は、そのような適応的な変化だけでは成立し得えないだろう、とも考える訳です。何らかの知的な存在(私はそれを神と呼びますが)が必要だろう、と信じるのです。
古くは、ネアンデルタール人やデニソワ人などの下等な人種は現生人類よりも文化的、能力的、形態的に現生人類よりも劣った種であると考え、それが「進化の証拠」だと語られてきました。しかし本書を読むと、そのような見方はもはや成り立たないことが明白です。なぜなら、実際に人類は彼らと交雑しあってきたからです。交雑するということは、交流があり、共存していた時期が確かにあったということです。彼らは私たちと同じように生活し、同じように生涯を終えた、ある意味では「仲間たち」だったということです。決して「下等な種」などではないのです。
そうなると、私たちが有する高度な文化的営みは、いったいどこから来たのか、という難問が未解決のまま残されることになります。
従来の進化論は、その難問に答えることができていません。本書で用いられたDNA分析も万能ではありません。「古すぎる骨」には使えないからです。古い骨については相変わらず「形態学」が使われることになります。つまり「骨の見た目」で判断する、ということです。ところが、本書を読むと、形態学に頼って知性や文化の程度を推し量ることの危さを非常に深く印象づけられることになります。その意味では、人類史の研究は袋小路とも言えるのかも知れません。
私は、突然変異と自然選択によるDNAの変化、つまり「自然のプロセス」で生命が変化していくということと、高度な文化的営みが産み出されるということは、別のものとして考えなければならないのではないかと考えています。「自然のプロセス」だけで語るには、生命は余りにも複雑すぎるということです。「知性」は「知性」からしか生まれないのです。ですから、前提条件としての知的な存在の介在なしに、純然たる自然のプロセスだけで高度な知性が生まれうると考えるのは、ある意味では「信仰」が必要ではないかとさえ考えます(「自然教」とでも言えるでしょうか)。
本書の著者は、進化論の研究者です。ですが同時に、熱心なユダヤ教徒の家族を持ったユダヤ人でもあります。ですから旧約聖書への言及も出てきます。その影響でしょうか。著者は人類が神の創造によって誕生したとは語らないものの、反面、人類が進化のプロセスのみによって誕生したとも語っていません。その点に於いては非常に謙虚な人だと感じられます。
進化論者の著した書物を読むと、多くの場合に、創造論に対する容赦の無い攻撃やこきおろしが記されていることが多々あります。その気持ちは理解できなくもありませんが、読んでいて気分が良いものではありません。高度な知性の誕生を現実のプロセスとして説き明かすことに進化論は成功しておらず、むしろこれまでの形態学の危うさが本書のような書物によって明らかになっているにも関わらず、一方的に「進化論のみが事実」と主張することは、果たして理性的なことだろうか、とさえ思うのです。
本書の場合はそのような「攻撃」が一切見られません。あるのは、証拠を見つけ出そうとする真摯な努力と、見つかった結果に対して感情的な論評を加えるのではなく、あくまで淡々と、科学的推論を積み重ねて議論する、という姿勢です。上述のユダヤ人としての背景がそうさせているのだろうと思います。本来、学問というものはこのような姿勢でなければならないと思わされます。その意味で、本書は創造論者である私でも、安心して読むことができました。そして、最新の科学的研究が人類史をどこまで解き明かしうるか、ということを、今後も期待を持って見つめて行きたいと思わされた次第です。
一読をおすすめ致します。
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