天皇制を巡る「大」問題

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今日の朝日の朝刊社会面に、昨今頻繁にメディアに登場するトピックだが、女系天皇を巡って三笠宮寛仁さま
(本当はこのように呼びたくはないのだが、「殿下」はおかしいし、呼び捨てはできないし…。敬称は難しい…)の発言が載っていた。

女系天皇に異論を唱えたもので、「女系天皇を検討する前に、(1)臣籍降下した元皇族の皇籍復帰、
(2)現在の女性皇族に養子を元皇族からとることができるよう定める、(3)元皇族に廃絶になった宮家の祭司を継承してもらい再興する、
の3つをまず検討すべきだ、というものである。

上記の3つの主張については、確かにそういう解決策もあるだろうし、あながたちおかしな話ではない。しかし、問題は動機である。
彼がなぜ女系天皇はまずいのか、というその理由に挙げたものは以下の2点である。順に見ていきたい。

「論点は…2665年間の世界に類を見ない我が国固有の歴史と伝統を、平成の御世でいとも簡単に変更して良いのかどうかです。
万世一系、125代の天子様の皇統が貴重な理由は、神話の時代の初代・
神武天皇
から連綿として一度の例外もなく、『男系』で今上陛下迄続いてきているという厳然たる事実です」

何をいわんや、である。冗談はやめていただきたい。まるで大戦中のような言い方である。まず、
神武天皇は実在が証明されていない、まさに「神話」における登場人物に過ぎない人である
2665年間という数字も、どこから出てきたのか分からないし、「一度も例外もなく」と、なぜ言えるのか。広辞苑には「神話」とは
比喩的に、根拠もないのに、絶対的なものと信じられている事柄」とある。「神話」と言った時点で、
それは歴史性が疑わしいものとみなされるのだ。それを、「厳然たる事実」と言う、その根拠はどこにあるのか。お話に過ぎない事柄を、
いかにももっともらしく本当のことのように言うのは、実に狡猾だと言わざるを得ない。

しかも、「天子様」とはいったい何様だろうか。皇族が、自分たちのことをこのように言う、その神経を疑ってしまう。
明治時代にタイムスリップしたかのようである。
今の時代に皇族がこのような自意識を持っているとは驚きあきれるしかない。

しかし、これで驚いてはいけない。彼の言説はさらに続くのである。

「古代より国民が『万世一系の天子様』の存在を大切にしてきてくれた歴史上の事実とその伝統があるが故に、
現在でも大多数の人は「日本国の中心」「日本人の原型」として、
一人一人が何かしら”体感”し、「天子様」を明快な形であれ、否とに拘らず、
敬ってくださっているのだと思います。」

開いた口がふさがらない、とはこのことだろう。ここでもまた安直に「歴史上の事実とその伝統がある」
と言い切ってしまう
。いったい、いつの時代、それほどに天皇が尊ばれた時代があったか。戦国時代や徳川幕府時代に、
天皇がどう「大切にされ」、「敬って」いたのか。隅に追いやられ、幕府ができれば将軍が実権を握り天皇は脇に追いやられ、
いないかのように扱われていた時代も相当長いはずではないか。

「大多数」と簡単に言うのも、やめてほしい。まるで、
自分が国民全体の思想を代表するかのような言い方である。そこには、
少数意見に耳を貸すつもりは全くない、非常な高慢さが見て取れる。さらに、「日本国の中心」だとか、
「日本人の原型」とはいったい何を言いたいのか。自分たちが日本の中核だと言いたいのだろうか。
自分たちから日本人は生まれた、と言いたいのだろうか。

彼が最後に語っていることも、決して聞き逃してはならない。

「陛下や皇太子様は、…御自身で、発言されることはおできになりませんから、…国民一人一人が…
きちんと意見を持ち発言して戴かなければ、日本国という『国体
の変更に向かうことになりますし、いつの日か、『天皇』はいらないという議論に迄発展するでしょう。」

ついに出た、「国体」! 大戦中の用語である「国家体制」のことだ。つまり、
天皇を元首とし国民は臣民である」という、あの忌まわしき時代の体制のことである。
思想・信条の自由は無く、政治の自由もなく、近代的な意味で国民が人間として扱われていなかった
あの時代のことである。その時代の体制を「国体」と言っていたのである。日本は、いつからそういう「国体」をもったのか。私などは、「国体」
(国民体育大会でない方)と聞くと、嫌悪感しかわかないが、そういう用語を平気で用いるこの神経は、どうなっているのだろう。

正直、ここまでコテコテだとは思わなかった。今の国民が天皇・皇后陛下をまがりなりにも「敬って」いるのは、
彼らの人格のゆえである
。柔和で穏やかで、深い人格的魅力をもつ(ように見える)、
あの姿に対して安心しているからである。決して、「2665年間、万世一系の脈々と受け継がれてきた天子様」であるから、
天皇陛下を敬っているのではない

それを差し置いて、こうした発言をする皇族がいる。これでは、人々に警戒感を与えこそすれ
(某党の一部の人たちは大喜びするかもしれないが)、決して共感は呼ぶまい。

私たちは、やはり天皇制については最大限に厳格な議論を行い、その権威や権力を最小にする努力をしなければならない。そうしなければ、
また150年前に逆戻りである。当の天皇家の人々がこう考えているのだから。

今回の記事は、私をして強い懸念と警戒心を持たせるに十分なものであった。

(※文中の引用は極力新聞の掲載本文をそのまま転記したが、元の記事自体が「要旨」
として掲載されたものであることをお断りしておく。)

コメント

  1. 初めてです。こんにちわ。あなたのことはヤフーブログの”8畳間通信”、お気に入りブログの信友コーナーで知りました。私は以前ながく青梅市に住んでいたので懐かしい羽村の地名を見て訪ねた次第です。私もキリスト信者で、ブログを開設しています。名前はブログ名です。上記の信友コーナーに”幸福”ととして出ています。そちらからまたはURLでお訪ねください。
    ブログをはじめて2ヶ月。今幸福の旅シリーズをノンクリスチャン向けに書いています。それまでインターネットにもあまり関心がなかったので開設からのこの間、ブログを通しての世の中とか色々学んでの現在です。これからは、一段落したところで、作風を変えて同信の兄弟達に向けて率直に書こうかと思っています。と言っても―私の所にもキリスト者の訪問者はあって、その中には何度も訪ねてくる真面目な若者もいるのですが―気弱な、自信のない人が多いというか、コメント、意見もほぼ無く、なかなか寂しい現状です。(まあ今のところはそれも紳士的かなと思ってはいますが。)あなたはその点臆せず自分の意見を言うところがよいですね。・・同信の友として色々あなたと話を交えることが出来ればよいと思っていますがいかがでしょう。こちらの文(活動)を見ていただいた上でコメントまたはゲストの部屋へご返事ください。

  2. でぶ より:

    記事拝見しました。貴重なご情報とコメント、ありがとうございました。気になることが3つあります。
    (1)簡単な話ですが、
    >三笠宮寛仁さま(本当はこのように呼びたくはないのだが、
    >「殿下」はおかしいし、呼び捨てはできないし…。
    こういう場合は「三笠宮寛仁親王」と呼べば、「さま」も「殿下」もつけず、なおかつ呼び捨てもせずにすみます。「明仁天皇」、「田中課長」と同列の用語です。
    (2)敬意の背景(これも細かいこと)
    >今の国民が天皇・皇后陛下をまがりなりにも「敬って」いるのは、
    >彼らの人格のゆえである。
    これは違うと思いますよ。
    勿論2600年間万世一系のゆえになんてことを理由に敬っているはずがないとも思うけど、私たち一般の国民が多少なりとも「敬って」いるのは、彼らの「職務」とか「憲法上定められた立場」のゆえにではないでしょうかねぇ。
    「キュークツでしょうに。テンノーヘーカも大変だねぇ」ってのが正直なところでしょう。我々は敬うほど彼らの人格については知らないと思う。
    (3)寛仁親王の意識
    貴兄のご指摘のとおり、これには正直言って呆れました。しかも国民をして「民草」と呼ぶとは何たる傲慢な意識かと思います。
    しかし、小生は女系天皇への異論自体は、寛仁親王とは別の理由で尊重すべきと思います。小生は昨年度「キリスト教倫理学」のテーマ発表で「天皇制」を取り扱い、「現行憲法の趣旨に沿って」という条件付きながら、天皇制については擁護派の立場をとりました。その背景には、現代社会においては現行憲法に定める天皇制は、政治介入権が最小限に抑制されており、なおかつ象徴として認知されているため、創価学会等の台頭する勢力に対して支配権の正当性を与えないための歯止めとして有効と判断できるからです。
    しかるに、女系天皇を認めた場合、皇籍を離脱した誰かが言っていたのですが、お婿さんの家系は一般人の家になります。現代社会の仕組み自体が男系社会である以上、女性天皇のお婿さんの家柄は、支配権の正当性を付与されたかのように振舞えると推測されるのです。そうなると、小生にとっては現行憲法下での天皇制を擁護する理由がなくなると判断されます。
    男系で粘れるだけ粘って、途絶えたら天皇制を廃止すればよいと最近は思わされます。
    以上です。貴兄のますますの学びの充実を祈ります。

  3. ありがとうございます より:

    コメントありがとうございます。
    私は、ただ天皇制が気に入らないというのではなく、三笠宮さまが言われた復古主義的な考え方に危機感を持っているだけです。
    また、「神話と宗教は似ている」、とありますが、それはケースバイケースだと思います。「あらゆる宗教は神話である」、あるいは「神話に似ている」とは言えないと思います。事実、私は「聖書は神話である」とは決して思っておりません。
    しかし、今回の三笠宮さまの発言は自ら「神話の時代から・・」と言っているわけです。ですから、そこを指摘させていただいたわけです。
    また、キリストの実在性と、神武天皇の実在性を、同列に置くのはいかがでしょうか。私はそのような議論はしておりません。ただ、上記のように、ご自分で神話といっているのに、同時に「厳然たる事実」とも言う。
    そこに矛盾はないでしょうか、と申した次第です。
    とはいえ、貴重なご意見に感謝いたします。

  4. 使徒ヨハネ より:

    >神武天皇は実在が証明されていない、まさに「神話」における登場人物に過ぎ
    ない人である
    天皇制がそうとうお気に召さないようですが、神話と宗教はよく似てるように思います。
    神話は頭から否定して、イエスの奇跡は信じるというのちょっと一方的じゃないでしょうか。
    大工のイエスは実在したんだろうが、神の子キリストは「聖書」における登場人物に過ぎないんじゃないの。
    宗教家が他の宗教を否定するのは危険だと思います。