参院選を前に思うこと

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参議院選挙がいよいよ来週の日曜日に迫ってきています。このところ、報道各社の世論調査によれば、「改憲勢力が3分の2に届く勢い」と報じられています。例えば朝日新聞の以下の調査。

「改憲4党、3分の2に迫る 朝日新聞・参院選情勢調査」

この調査はサンプル数も4万3千以上と、各都道府県につき平均で千近い数を確保しており、信頼性は相当高いものと思われます。つまり、今現在投票が行われたらほぼこの結果になるということです。

この結果を受けて、暗澹たる思いになっているクリスチャンの方は、大勢おられると思います。かくいう私も、暗澹とまではいかないものの、憂慮の思いを強くする一人です。なぜ「暗澹」ではなく「憂慮」かというと、このところ公明党は、自らが「改憲勢力」と括られることに対して明確な反論をし始めているからで、そのことを考えると、明示的な改憲派は自民党と維新の会(とその他)となり、現実的な憲法改正発議にはまだまだハードルは高いものと思われるからです。

最近、このブログをお読みになった方はご存じないかもしれませんが、私は憲法に対しては「基本的に護憲の立場であるが、聖典視はしない」というスタンスを取ります。つまり「不可侵」とか「無謬」などとは思っていない、ということです。

キリスト者としての私は、福音派にカテゴライズされます。つまり、「聖書を誤りのない神のことば」と信じています。また特別啓示としての聖書は「閉じて」おり、何ら付け加えられたり、あるいは取り去ったりされるものではない、と信じています。当然ながら、憲法というものはそうではありません。憲法は人間が造り出したものであり、キリスト者が言う所の「聖典」ではありえません。ゆえに、変更の可能性は、すくなくとも純粋に可能性の面だけから見れば「ありうる」と思っています。そこが聖書と憲法の違いです。

ところが、この辺りのことがどうも日本の福音派の中で、意図的なのか無意識なのかはともかく、混同されているように感じています。とりわけ9条の扱いには、その手の違和感を感じるのです。

前述したように私は護憲の立場を採ります。しかし同時に「憲法9条が日本の平和を守ってきた中心」であって、「9条が変更されると日本は戦争国家になる」という主張については、必ずしも同意できない部分があるのです。

憲法というものはあくまで「文字の集まり」です。言うまでも無く、文字は現実に目に見える平和を「つくりだす」ことはできません平和をもたらすのはあくまでも「人間自身」です。それ以外の何物でもありません。確かに9条の言葉は人の心を打ちます。平和の尊さを訴える力を持っています。少なくとも、現首相が言うような「みっともない憲法」との評とは対照的な、美しいことばです。

しかし、です。だからといって、その「ことば」が実存的な平和をもたらした「主体」であるかのような理解をするとすれば、それは行きすぎだと感じるのです。「平和」とは、「ことば」によって心動かされた人々が現実に生きて働き、平和のために労することによって、初めて実現されるものです。人間の生身の生き様を離れた「平和」はありえないからです。

つまり、

A「憲法9条『』平和を守ってきた

のではなく、

B「憲法9条は人々の心に平和の尊さを訴え、この崇高な理念に動かされた『人々が』、平和を守ってきた

のではないでしょうか。

この辺りのことが、どうも混同されてしまっていて、それゆえに、「護憲」の訴えが人々の共感を呼ばない現状を生んでしまっているのではないか、と危惧しているのです。それどころか、もし上記のAの立場を強硬に主張しすぎると、あたかも憲法9条とひいては現憲法の全体が「聖典」であり「不可侵」であるかのようにさえ聞こえてしまい、中間層に対する訴求力を逆に損なう結果になっているのではないか、とさえ感じています。

たとえば明治憲法第3条には、有名な次の言葉がありました。

天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス

この言葉は少なくとも元々の意図だけを見るならば、良く言われるように天皇を現人神、アンタッチャブルな存在(絶対君主)にすることを目論んでいたかというとむしろその反対で、天皇を政治の実際から切り離すための装置(立憲君主)として導入された訳です(参考)。

ところが、当初のそのような意図とは裏腹に、天皇を「神的なシンボル」として自分の利益のために利用する人々が現れました。国家神道はまさにその実例ですし、また「統帥権干犯問題」として知られる事件も広い意味ではそうでしょう。

私たちの国が太平洋戦争の手痛い敗北から学んだことは、まさにその過ちであったはずです。人間そのものや、人間のつくりだしたものを神聖視したり不可侵とする。それがいかに大きな災厄を招くものか。そのことを学んだはずです。

ところが、憲法9条を巡る護憲派(私もその一員であるはずですが)の論理を見ていると、まさに明治憲法が犯したような過ちを、日本国憲法そのものに対して犯しているのではないか、と感じてしまうのです。つまり、日本国憲法を神聖視し、一文字も変えてはならない不可侵なものであるとする、そのあり方のことです。それは下手をすると、形を変えた「明治憲法主義」の印象を一般の人々に与えかねない危険がある、と思うのです。

私は、上記のような危険を強く意識する立場から「護憲ではあるが、神聖視はしない」というスタンスを明確に打ち出している訳です。憲法は変わりうるものです。可能性としてはそうです。ですから「護憲」だからといって、それは「一文字も変えない」という意味ではないはずなのです。本来、正しい意味での「護憲」とは、「日本国憲法の『精神』を大切にして護っていく」という意味ではないかと思います。ところが、現実の護憲運動は「字面を護る」というところに余りにフォーカスを起きすぎているように思うのです。

私は、このようなやり方は憲法観に関して中間的な人を遠ざけるばかりでなく、純然たる護憲派さえも最終的には遠ざけてしまう結果に終わりかねない、非常な危うさを持っていると感じています。というのは私のように、「日本国憲法の精神をしっかりと護りとおせるのなら、字面の修正や一部修正はあり得ない訳では無い」という立場の人も、大勢居ると思うからです。いやむしろ、これはあくまで私の印象に過ぎませんが、現在の日本人のマジョリティは、実は私のような考え方をする人なのではないかと思うからです。実際、世論調査を行うと、「憲法を改正すべきか否か」と聞かれると「否」の割合が多いにも関わらず、選挙の世論調査を見ると、改憲派が多くを占めるという逆の結果が生じることからもそれは分かります。つまり、大衆の受け止め方は案外「積極的に憲法を変える必要はないが、しかし一文字たりとも変えてはならないとまでは思っていない」という所にあるのではないか、と思う訳です。

仮にこの仮説が正しいとすれば、護憲派のとるべき道は「名を捨てて実を取る」という所に置かれなければならないと思います。護憲派が字面の一字一句に拘り続けている間に改憲派は着々と選挙対策を進め、民衆を煽り、圧倒的な多数派を構成することに成功するかもしれないのです。事実、今回の事前世論調査が示しているのは、そのような傾向です。この傾向は、今後も続いていくことと思います。なぜなら、日本だけがそうなのではなく、世界中がそのような流れになっているからです。米国しかり、フランスしかり、イギリスしかり。世界がそのような時代に入ってきている、ということです。そのような時代を見る目を持つことなしに「あくまでも憲法の『字面』を護りとおす」という所に拘泥するのなら、最終的には、最も大切な日本国憲法の『精神』までも失うことになりかねないのではないでしょうか。

私は「字面に拘って、精神を説き広めることを怠る」現代の護憲派の立場が、「律法の字面に拘って、律法の精神については無理解であった」律法学者の姿に時に重なるような、そんな錯覚を覚えることがあります。「律法を護ることが人間を救う」と言うことと、「憲法9条を護ることが平和をもたらす」と言うことは「字面の力に依り頼む」という点で同根と言っても良いのかも知れません。本来はそうではないはずです。律法が人を救うのではなく、律法を通して出会った神への信仰が人に救いをもたらすのです。同様に、憲法9条が平和をもたらすのではなく、憲法9条によって心動かされた生身の人間の生き様が平和を生み出すのではないでしょうか。

ですから、護憲運動の目指すべき方向性は「共感を得ること」に尽きると思います。平和は「人」が生み出すものだからです。ですから「人」に向いていない運動は、たとえそれがその理念においてどれだけ「崇高」に見えたとしても、本当の意味で支持を得ることはできないと思います。そのためには対話が必要でしょう。合意形成のために、根気強く議論を重ねていく必要があるでしょう。

時に私たち福音派は、正義感からか、時間のかかるそのようなプロセスを省略したり軽視したりして、自分の主張だけを主張する純化路線に陥る傾向があります。しかし、先鋭化した主張は幅広い支持を呼ぶことはありないばかりか、かえって中間層をも遠ざける結果に終わるということを、知っておくべきだと思います。私は、民主主義の根幹が「デモ」ではなく「選挙」である以上、選挙においてきちんと議論を行い、支持を拡大できる態勢を地道に構築していくべきだと思います。軸を明確にし、レッテル張りをするのではなく、分かりやすい言葉を用いて、人々の善意に訴える。遠回りに見えても、それが結局は人々の心を動かすことになるのではないでしょうか。

最後に、私たちクリスチャンにとって最も大切なことは、「私たちは、キリストにおいてすでに勝利者である」という事実です。「選挙で支持する候補が敗北したから、人生お先真っ暗」。もしそう考えるとすれば、私たちの説く「救い」は政治体制に左右されるような薄っぺらいものだと暴露したに等しい訳です。本来クリスチャンというものは、「世の中がどのように移り変わるとも、私の救いは揺るがず、神のことばもいささかも揺るがない」と信じている筈です。「この世のいかなるものも、神の愛から私たちを引き離すことはできない」(ローマ8:38〜39)のだからです。まずこの「揺り動かされない軸」をしっかりと持つべきです。

どのような政治体制、指導者が上に立とうとも、私たちの内なる自由はいささかも揺るぐことはなく、私たちの救いは微動だにしません。ここにしっかりとまず立たせて頂く。その上で、自分が追い求めている道が、表面的なものを追い求めているのか、それとも本質的なものに憧れているのか。そのことをしっかりと自己吟味していきたいと思います。

どのような「運動」も、まずはそこから始めなければ、支持を得ることはできない。

今回の世論調査は、そのことを私たちに教えてくれているのではないでしょうか。

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