ブラジル 対 オランダ戦に見るメンタルの影響から学ぶ

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昨晩は眠い目をこすりながらW杯準々決勝の「ブラジル対オランダ」戦を見ました。 見た方はお分かりのように、前半は一方的なワンサイドゲームで、ブラジルがオランダを子供扱いしていたのが印象的でした。 これは仮に日本が勝ち上がっても、万が一にも勝機はなかったな、という印象でした。

ところが。

後半になると流れが一変。 アンラッキーなオウンゴールで失点してからのブラジルはまるっきしべつのチームに。 解説者が、「W杯これまでの試合でブラジルはこのような、追いつかれる展開がなかったのでプレッシャーは大きいだろう。ここからが真価が問われる」と言っていましたが、それからのブラジルは、慌てふためいて、自分が何者であるかを忘れたライオンのようになってしまいました。 そして極めつけは、DFの要で一点目のアシストも決めたフェリペ・メロ選手の「踏んづけ事件」による一発退場。

これ以後、ブラジルは何をやっても裏目、裏目に。 糸の切れたたこのように統率を失い、ガソリンの切れた車のように自陣内に張り付いて攻められず、パスミスを連発し、ロングボールを放り込んでもことごとく奪われるという最悪の展開となり、それを立て直すことができず、あっけなく散っていきました。個人的にはカカーが好きなのと、オランダの選手のややダーティなサッカーに幻滅を覚えていたので、ブラジルに勝ち上がって欲しかったのですが、反対の結果になってしまいました。

この試合を見ていて思ったのは、チームスポーツにおいて、ピンチの時のメンタル面のリカバーがいかに重要かということです。前半、あれだけ優位に試合を進めておきながら、後半の一つのミスで慌てふためいてしまう。危機の際に仲間を鼓舞し、落ち着きを取り戻させるリーダーがいない。 また個々の選手の中にも、「まだやれる、大丈夫だ!俺たちはブラジルなんだ!」という自覚が乏しいように感じられました。

しかし、考えてみるとこれは、私たちの信仰生活にも言えることではないかと思いました。 ともすると私たちは、迫り来る危機を前にして、「誰に従うのか」「誰の声に聞くのか」を忘れ、パニックに陥ってしまうことはないでしょうか。 また、自分たちが主イエスの血潮によって贖われた者、神の子とされた者である、という事を忘れて落ち着きを失い、目の前の状況に右往左往してしまう。 そういうことはないかと思わされるのです。

これは、群れのリーダーである者にも言えることでしょう。 リーダーとはどのような者でしょうか。それは、

(1) 将来の危機を予想し、御言葉からその対処を学び、教会にそれをフィードバックする。
(2) 危機に直面したら、主イエスを思い起こさせ、主の言葉をもって励ます。
(3) 一人一人に、自分が主の前で何者であるのかを思い起こさせ、すでに与えられている永遠のいのちの希望を再確認できるよう導いていく。

ということではないでしょうか。

文脈はまるで違いますが、ブラジル対オランダ戦 は、上記のようなことを考える上で、私にとっては格好の教材となったのでした。

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