この事件は、「教会とは何か」を考える上で、牧師や神学生にとって避けては通れない出来事になると思います。
メディアの報道だといまいち見えてこないところがあるので、2ちゃんねるをしばらく眺めていたところ、
この教会の教会員の方のウェブページを見つけました。
日記を読んでいるうちに、こんなくだりがありました。
あれほど捨て身になって福音を語る牧師さんにお会いしたのも、初めてだった。
そして彼は、日本と日本人のために、必死でそうしていた。
イエスさまはいったい、どんなふうにご覧になっていたんだろう。
イエスさまのお心って、いったい。
考えるだけで、私はまた泣いてしまう。
神さまは、このことに関して、必ず真実を明らかにし、みこころを悟らせて下さると思う。
件の牧師についてのコメントなのですが、考えさせられるものでした。「捨て身に福音を語る牧師」の懸命な姿に、
教会員は感銘を受けていたようです。人生を賭けているという決意がこの人から感じられたのでしょう。人に感動を与えるほどの・・。
二つのことを思わされます。それは、
- 伝道者は、自らの語るところと乖離した生活を歩む危険に絶えず晒される。
- 伝道者は、熱意を持って語るだけでなく、人々に「考える、検証する」ことを教える必要がある。
ということです。1は特に大きな課題です。「イエス様は~」「聖書は~」と教え講釈しながら、自分がその通りに生きようとしない。
働き人なら誰でもこの穴に容易にはまります。程度の差こそあれ、聖神中央教会の牧師が通ったのと同じ誘惑は、
誰にでもあるということをわきまえていなければいけないと思います。「自分は大丈夫」と思うことは、
それ自体がすでに危険な兆候なのだと思います。
2について。使徒の働き17章でパウロはベレヤという場所で伝道します。
ここの人たちはパウロのことばを鵜呑みにせず、自分たちで聖書をよく調べ、
本当にその通りかと検証を加えています。「そのため、彼らのうちの多くの者が信仰に入った」」
(使徒17章12節)とあります。「牧師が語ったから」とか、「本に書いてあるから」ではなく、自分自身で聖書を学ぶ姿勢が、
何よりも大切だと思わされます。
惜しむらくは、この教会の人たちが「牧師の熱意や人柄」ではなく、「聖書は何を語っているか」を追求していたらならば、
このような悲しい出来事に陥らなかったかもしれないことです。とは言っても、こうした成熟した教会に育てることが、
実は一番の難しさであったりするのですが・・・。
ともあれ、今回の事件を風化させることなく、「この問題は自分の問題である」という認識を持って、歩んでいきたいと思います。